2.メープルウォーターの採取
カナダオダマキの花は筒状で黄檗色の五枚の花びら。花びらを包む五枚の萼と、後方に角のように突き出ている距は鮮やかな紅赤色。三出複葉の可愛らしい形をしている緑色の葉を持っている。
それを鬼胡桃、栴檀草、ブルーベリー、百合の木、セイタカアワダチソウ、アオビユなどを使って大柄なカナダオダマキの花が映えるような図柄に手描きで染色されたバンダナ。旅立ちの日に両親から手渡されたそのバンダナが今ミーティアの頭部を覆っている。
雪解けは日ごとに進んでいるが今なお肌寒く、ミーティアはいつものチュニックの上からウールの毛糸で編んだカーディガンを羽織っていた。
山中を歩いていたミーティアは足を止めてそのカーディガンの着崩れを直し、そのために一旦下ろしていた荷袋を背負いなおそうと手を伸ばしたところで、ふと上を見上げた。
「なに?」
なにやら視線を感じた気がしたのだが気のせいだったのだろうか。ミーティアの視界に映るのはみずみずしく輝く新葉の緑と黄色の花、そして冴え渡る空の青のみ。
頭上に向けていた顔を正面に戻し、そして何事かを思案するように俯く。一瞬ののち。すばやく剣を引き抜いたミーティアは斜め上にある彼女の腕の太さほどの枝に切りかかった。
乾いた音がこだまする中に悔しげに舌打ちする音が混ざる。発生源はミーティア。切り落とすつもりだった枝にはむなしげな空気をかもしながら剣が食い込んでいた。
「あーもうっ。どーしてもっとかっこよくできないかなー。ていうかさっさと抜けなさいよ。もうっ」
悪態をつきながらもどうにかこうにか剣を取り返したミーティアは、枝の傷口から樹液が染み出していることに気がついた。
改めて全体を見渡してみればこの木はサトウカエデだったようだ。
頭の中で今日の日付を思い出してみる。でてきた答えにミーティアはほくそ笑んだ。
サトウカエデの樹液の収穫は三~四月中旬。今はちょうど四月上旬。ぴったりだ。
樹液を採取するべくミーティアは地上一.五メートルほどのところに直径三センチメートル程度の穴を開け、管を挿入して容器に受けた。
サトウカエデの樹液を煮詰めるとメープルシロップができる。メープルシュガーやメープルキャンディにしてもよい。いずれにしても高額で買い取ってもらうことができるのだ。
もちろん自分自身で食べて栄養を得ることにも使える。
ミーティアは持っている管や容器の数だけ仕掛けを設置していった。
黙示録に記載されている事象が次々と現実に起きていく過程を見ていくと、これらは本当に千年王国と呼ばれる永遠の楽園を築くための布石なのだと思えてくる。
火山の一斉噴火による溶岩や火山砕屑物の大放出。そして地震、津波、プレートが大きく動く地殻変動等が起こった。それにより以前は七つの大陸と七つの海そして数多くの島々によって構成されていた世界は、四つの大陸と四つの大洋に変貌した。北界大陸、新界大陸、南界大陸、南極大陸。それから太平洋、大西洋、南氷洋、北氷洋だ。
火山の噴火自体は早急に終息したが地殻変動は今なお続いている。
一つの超大陸と一つの海洋で構成された世界。それが千年王国の姿なのだろうか。それはあたかもパンゲアと呼ばれた一つの超大陸と、パンサラッサと呼ばれたたった一つの海洋とで成っていた古生代の世界をほうふつさせる。
実際ウィルソンサイクルという大陸移動説を基にして提唱された概念によれば、大陸はおよそ五億年ほどの周期で分裂や形成を繰り返しているとのこと。
またプルームテクトニクスという地球物理学の学説の一つによれば約二億年後には太平洋を消すようにしてすべての大陸が集結し合体する。そして太平洋跡には大陸の衝突によって大山脈が出現すると考えられている。『ノヴォパンゲア大陸』という名の超大陸の誕生である。
とはいえ予想はあくまでも二億年後である。それが今現在の状況から推測すればどう考えても約十年後に短縮されようとしている。
一週間でピタリと止まった火山の噴火。本来であれば大気上層に達した火山灰によって地球全体が覆われて小氷期に突入していたはずだが、噴火が止まった直後からすでに部分的に青空がのぞき始めてこちらも一週間後には綺麗に消え去っていた。
大陸の配置の変化につきものの氷期さえ未だに訪れてはいない。
一回目の角笛の音が世界に響いた瞬間から始まった数々の災害。それを、誰が言い出したのか。人々は神が起こした災害、すなわち『神災』と呼んだ。そう言わざるを得ないほど通常の天災や自然現象とはかけ離れた奇禍が次々と世界を襲っていた。
環太平洋造山帯およびアルプス・ヒマラヤ造山帯を中心とした火山群の一斉噴火に始まった神災。
その神災前から陸地の三分の一を呑み込んでいた乾燥地帯。そして神災によって直接的な被害にあった地域も陸地の三分の一を占めた。
重複している場所もあるとはいえこれで人が生活できる土地が陸地の半分以下になってしまったことは現実だ。
世界の主要都市は造山帯上に多く存在しており、最初の噴火でほとんどが壊滅した。辛くも逃れた北アメリカ大陸の東海岸に存在していた都市もその後発生した巨大津波に呑み込まれて消滅している。
国が国として機能せず、助けを求めてもどこからも手が差し伸べられることはなかった。
もはや自分たちの力だけで生きていくしかない。そう決心せざるを得なかった人々は、やがて食料を確保できる場所を中心に小さなコミュニティーを形成し始めた。
食料が少なくなってくるとコミュニティーごと移動するか、もしくは比較的体力のある若い世代の者たちがその土地から旅立ったりした。
そうした人たちがたどり着いた一つがプレーリーだ。旧北アメリカ大陸――現在の北界大陸新北区の中央に広がっている、かつて大国一国を支えていたほどの広さと生産性を持っていたこのプレーリーでは今なお農業地帯として活躍しておりおもに麦とトウモロコシを生産している。
とはいえ神災以前は大型の農業機械を使って大量生産を実現させていたが、化石燃料が手に入らなくなったためすべて人力でおこなわなくてはならなくなった。そこで需要と供給が発生した。
人手が欲しい側と、食料と生活できる場所が欲しい側。
いつしか農地の一部を居住地へ変え、雇った労働者をそこへ住ませる地主の姿がプレーリー内のあちこちで見られるようになっていた。
村を出たミーティアも数ヶ月間そこで働いてさしあたりの食料は確保している。
ミーティアは荷袋から調理器具と穀物の粉の入った袋を取り出した。
この粉もそうやって手に入れた一つだ。
調理器具で少量のお湯を沸かす。取り出した穀物の粉を器に適量入れ、砂糖も粉の半量ほど入れる。そこへ沸騰したお湯を注いで練った。
最初に入れた粉は大麦を精麦した後で煎って粉にしたものだ。「はったい粉」とか「麦こがし」とか「香煎」とよばれるものだ。
それを食べ終えると残ったお湯で器の内側に残ったはったい粉を溶かしてお茶のように飲み干す。
たとえば旅の途中で水場を見つけたからといってその水が必ず飲めるものだとは限らない。
節水も大事なことだとミーティアは村でもプレーリーでも教わっていた。
簡単な食事を済ませたミーティアは樹液の溜まり具合をチェックした。
メープルシロップを作るためには定められた糖度になるまで煮詰めなくてはならない。そのためにはおよそ四十~五十分の一くらいになるまで煮詰める必要がある。
収穫時期が遅めのため糖の含有量も幾分下がっていると思われるので長い時間煮詰めなくてはならないだろう。仕上がり等級としてはアンバーあたりになる。
となればできるだけ多くの樹液を採取したい。
が、そこでミーティアはようやく気づいた問題に頭を抱えた。
「どうやって運べばいいのかしら……?」
故郷の村では馬車を使って採取した樹液を集めて回っていた。そしてそのままメープルシロップを作るための山小屋風の工場――シュガーシャックまで運んでいたのだ。
しかし今回は馬車どころか馬さえいないし協力し合う村人もいない。
それにミーティアが今いる辺りの木々には樹液を採取した跡が残っていなかった。ということはこの近くにシュガーシャックはないということだ。
「枯れ枝を集めてきてここで煮詰めるしかない……とか?」
思いつくままに方法を呟いていたミーティアに、いるはずのない第三者の声がかかった。
「手伝ってやろうか?」