一期一会
静かな店内にはクラシックが流れている。もうすぐ満席になろうかというほどの混雑ぶりだが話し声はさほど多くはない。ほとんどが私たちのように、ただ偶然に相席になった人々なんだろう。
「最初に飲んだエスプレッソの味はみつかりましたか?」私は女性に聞いてみた。
「いいえ、まだ見つかっていません。残念ながら。」女性はフフフと笑って、手に持っていたエスプレッソカップを置いた。
「じゃあ、また同じお店に飲みに行くとか。」と、私はちょっとくだけた感じで言ってみた。
「う~ん・・・そうですね。でもちょっと遠くて行けないかな。外国なんですよ。」そう言って女性は少し残念そうな表情をした。
外国・・・近場でアジアだろうか。しかしエスプレッソのイメージは無いな。じゃあ・・・
「アメリカですか?」そう尋ねると
「いえ、北欧です。スウェーデン。」と予想外の答えが返ってきた。
スウェーデン・・・まったくといっていいほど情報が無い。イメージが特に何も無いだけでなく、ノルウェーとフィンランドと区別が付かない上に、北欧のどこに位置しているのかもわからない。
「スウェーデンですか、それは遠いですね。たしかにちょっとエスプレッソを飲みに行くことはできないですね。」とりあえず、そう言いながら頭の片隅では、もっと良い会話の題材は無いだろうかとぼんやり思っていた。
「ですよね。でも」そう話し、一瞬女性が少しためらったかのような間を空けた後にこう続けた。
「もし、もう一度同じ店でエスプレッソを飲んでも、きっと私が探している味では無いんだと思います。」
女性のこの言葉は、当たり障りの無い会話に少し退屈を感じ始めていた私に少なからず刺激となった。同じ店で同じ飲み物を飲んでも同じ味にならないとは一体どういうことだろうか。この人はもしかしたら哲学的な話をしようとしているのだろうか、だとしたらちょっと面倒くさい気もするが。
「どうしてですか?」私は聞いてみた。
「そうですね・・・うーん。味覚は環境とか体調とか気分によっても変わるものだと思うんですが、最初にエスプレッソを飲んだときの・・・その時と同じ気持ちにはもう、なれないのかな、と。」女性はそう答えると一瞬うつむいて、また笑顔に戻った。たぶん言葉を選びながら話しているのだろう、時折はさむ間で女性が会話を抽象的な内容の枠に収めようとしているのが伝わる。そこであえて私は、
「元カレと一緒に飲んだとか。」と、ズバリ聞いてみた。たぶんそんなところだろうな、という軽い気持ちだった。
すると女性は一瞬表情を固めて私の目を見た。席に着いてから10分程会話をしてきて、彼女と目が合ったのはこのときが初めてだった。
私は、さすがに初対面なのに慣れなれしかったかなと心の中で少し焦ったが、すぐにまた彼女の頬がやわらかく緩んだのでホッとした。
「うーん、ちょっと違うんですけど・・・まぁ微妙にそんな感じです。」少し動揺しているのか照れているのか、もみあげあたりを手でいじりながら軽くうつむいて彼女はそう言った。
ちょっと違うけどそんな感じっていうのはどういうことだろう。前の彼氏ではないということは今の彼氏か?はたまた旦那か?ひょっとして浮気相手・・・と、ついつい詮索してしまう癖が顔を出しそうになったが、先ほど目が合ったときの彼女の視線を思い出して、それ以上は聞かないことにした。
窓の外に目をやると、駅の方向から歩いてきて通り過ぎる人々が見える。気づけばいつのまにかこの喫茶店のイスというイスは全て埋まり、文字どおり満席になっていた。入り口付近には、席が空くのを待っている人も数人立っている。頭にはまだ溶けきらない白い雪がふわりと積もり、しだいに店内の温度で溶けて透明な水に変わりキラキラと光っていた。
「電車の再開を待っていらっしゃるんですか?」同じように窓の外に目をやっていた彼女が話しかけてきた。
「ええ、そうなんですよ。会社に行くところでした。・・・そちらも?」私がそう答えると、
「私は学校の実習に向かうところでした。」そう彼女はまたもや意外なことを言った。学校?この歳で?私が次の言葉に詰まっている様子を察してか、すぐに彼女は説明を付け加えた。
「私は通信制の大学院で心理学を学んでいるのですが、今日は病院での実習があって。」それを聞くと私も、納得した。
「通信制の大学は聞いたことがありますが、大学院もあるんですね。知りませんでした。」
「あまり知られてないですよね。私は大学も通信制だったんですが、卒業してみたら大学院も行ってみたくなって。」
「勉強熱心なんですね。僕は大学を卒業したらもう勉強なんて見向きもしませんでしたよ。・・・よく考えたら在学中もそんなに勉強してませんでしたけど。遊ぶのに夢中で。」私がこう言うと、
「楽しそう。」と、彼女は笑った。
なんだろう。私はこのとき、とても不思議な心地になっていた。この店の雰囲気のせいなのだろうか、いつもと違う状況を楽しんでいるせいなのか、それとも彼女の持つ空気のせいか。
さっき彼女が言っていた味覚の話は、きっとこういうことなのかもしれない。次にこの店に来ても、きっと今と同じ気持ちにはならないんだろう。もしまた偶然にここで彼女と遭遇して会話をしたとしても、この気持ちは感じられないのだろう。人の出会いは一期一会とはよく聞くが、もしかしたら全ての一瞬一瞬は一期一会なのかもしれない。人も、場所も、状況も。全てが複雑に混ざり合って、影響を与え合う。
オリジナル・ブレンドを口に含みそんなことをしみじみ考えていたら、この味を忘れるのが惜しいような気持ちに駆られた。
「毎度でーす。」私が黄昏ていると、‐カランカラン‐と勢いよく扉が開いて、威勢の良い声が聞こえた。店に居る皆の視線が一気にそちらへ注がれる。どうやら仕入れの業者のようだ。
「いやいや、急に配達をお願いしてほんと申し訳ない。」この店のマスターであろう年配の男性がカウンターから出てきて、若い業者に軽く頭を下げる。
「いえいえ、いつもお世話になってますから。」業者は屈託のない笑顔で、両手に抱えてきたケースをカウンターの隅に置き、少しマスターと会話をしていた。
「駅のほうはどう?電車まだ動いて無い感じ?」
「ああー、あれはしばらく動かないと思いますよ。何年か前にも大雪で3時間くらい送れた時があったけど、あの時と同じ感じがしますね。」
「こんなにひどくなるとは思わなかったなあ。配達大変だろう?道路はどう?」
「このあたりの道はそんなに車は詰まってないんですけど、向こうの大きい通りなんかは渋滞してますね。とにかく雪道の運転が怖くて、みんなノロノロで。視界も悪いし。」
「いやいや、本当にご苦労さんでした。運転気をつけて。」
業者はまだ次の配達先に行かなくてはならないようだ。
「じゃあ、またよろしくお願いしまーす。」と言って店の外に出て行った。
この会話を聞いて、私はふっきれた。早く会社に行きたいなどということはもう考えまい。なんなら急な体調不良で有給を取ったって良い。バレバレの仮病だが、そこは上司とはいえ同じサラリーマン同士、仮病に気づかぬフリは最低限のマナーであると心得ている。電話越しに半笑いで「お大事に」と言われたって、誰にも咎められることは無い。
よし、決めた。私はこの一期一会の状況を精一杯味わうことにしよう。