エスプレッソ
その日は、日本中が朝から大寒波に襲われていた。ここ東京でも3年ぶりに雪が降り、交通網は大混乱を起こしていた。そして出勤ラッシュの駅には、いつまでたっても到着しない電車を待つ人々が溢れていた。私もその中の一人だったが、観念してカフェにでも入って暖を取りながら時間を潰すことにしようと、周りの人を押しのけもみくちゃになりながらやっと駅を抜け出した。
そそくさとカフェへ向かって歩く途中、ハンバーガーショップの横を通ると、店内に入ることが出来ない人が溢れていた。私が目指すカフェは駅から5分ほど離れているし、いつものこの時間はほとんど客が居ないので大丈夫だとは思うが、さすがに今日は混んでいるのだろうか。私は歩みを速めた。
‐カランカラン‐と小気味の良い音を鳴らし、私はカフェの扉を開けた。スターバックスがカフェならば、この店は昭和レトロな昔ながらの喫茶店といったところか。ざっと見回したところテーブルは全て埋まっている。
「お客様は一名様でいらっしゃいますか?」ウェイトレスの女性が近づいてきて言った。
「はい」私が答えると
「申し訳ございませんが今日は店内が混雑しておりまして、もし他のお客様とご相席でよろしければご案内できますが・・・」ウェイトレスは申し訳なさそうな顔をして言った。
「それで構いません、お願いします。」私がそう答えると
「では、お席にご案内いたします。」そう言って手を前方に指してからウエイトレスは歩きだした。
私の背後ではまた‐カランカラン‐と音が鳴っている。もう少し駅を出るのが遅かったらこの店にも入れなかったかもしれない、よかった。
「お席はこちらになります。ご注文がお決まりになりましたら声をおかけください。」私を席へ案内し終わるとウェイトレスはそそくさとカウンターの方へ去っていった。
私が案内されたテーブルは小さいテーブルの対面に座る2人がけの席であった。先客の女性はぼうっと窓の外をながめている。
「すみません、失礼します。」と言って私が席に着くと、
「あ、はい」と笑顔で頭を軽く下げて答えてくれた。
年の頃は30代前半か・・・半ばくらいであろうか、決して若くはないがショートカットの毛先を跳ねさせていて愛嬌のある感じの人である。
私はコートを脱いでイスの背にかけ、メニュースタンドを手に取って見た。ここのマスターのこだわりなのだろうか、メニューも昭和を感じさせる品揃えだ。本当はコーラフロートが飲みたいが、朝からスーツ姿の若い男がコーラフロートを頼むのは少し勇気が居る。目の前には若くは無いとはいえ女性が居る。私はある程度は人目というものを気にして生きていきたいので、ここはやはり無難にこの店のオリジナル・ブレンドを頼むことにした。
「すいません」手を上げると、先ほどとは違うウェイトレスが来た。
「ご注文はお決まりでしょうか」
「オリジナル・ブレンドをお願いします。」
「かしこまりました。」
素早く注文を聞くとウェイトレスはカウンターの方へ戻っていった。
ふと相席の女性のほうに目をやると、彼女の前には小さなカップが置かれていた。いや小さすぎる。この店のコーヒーはこんなに量が少ないのだろうか、これで650円は高すぎるのではないだろうか、ここから見た感じだとゴルフボールを半分に割った感じの大きさしかないように見える。不安にかられて横の席を見てみると、中年男性が向かい合って座っている。会話がいっさい無いところを見ると、こちらも相席なのであろう。2人の男性の前には、普通サイズのカップが置いてある。他の席もキョロキョロと見回してみたが、皆の前には普通のカップが置かれていた。どうやらこの女性のほうが特殊なものを注文しただけのようだ。我ながら小市民だ、焦った。
せっかくなので私はそれを会話のきっかけに、目の前の女性に話しかけることにした。
「ええと、すみません。それは何を注文されたのですか?カップがすごく小さいので気になってしまって。」ひそひそ声より少し大きい程度の声で、遠慮がちに話しかけてみると
「あ、はい。これはエスプレッソです。」窓の外を見ていた目線を私に移して、少し驚いた風であったが笑顔で返事をしてくれた。
「エスプレッソですか。名前を聞いたことはありますが、そういえば飲んだことが無いです。ありがとうございます、ちょっと気になったもので。」私も笑顔で、少し緊張してヘコヘコしながら言った。
「苦いイメージがあるので好き嫌いが分かれますからね、意外と目にする機会は少ないですよね。私も4年前に初めて飲んだんですよ。」女性は続けて返事をしてくれた。なんだかフレンドリーな人かもしれない、よかった。
「お待たせしました。オリジナル・ブレンドコーヒーです。」そう言ってウェイトレスは私の前にカップを置き
「ごゆっくりどうぞ。」と言って下がっていった。
オリジナル・ブレンドを一口飲み、なんとなくもう少し会話をしたくて私はまた女性に話しかけた。
「初めて飲んだときはどうでしたか?やっぱり苦い!って感じですか?」
「そうですね・・・苦い!というのもありましたけど、最初に頭に浮かんだのは濃い!という言葉でしたね。なんというか、苦味もそうなんですけど甘みもうまみも香りも・・・全てが濃いなぁと思いました。」女性は何かを思い出しながら話すように、間をあけながら答えた。
「それで、ああおいしいってなってエスプレッソが好きになったんですか?」私が尋ねると、
「んー、おいしいとは今でも正直あんまり思わないんですけど・・・」と、女性の答えは少し意外なものだった。さらに女性は続けた。
「いろんなカフェに入る度にエスプレッソを注文して、最初に飲んだエスプレッソの味をずっと探しているのかもしれません。」
と、女性は笑顔でエスプレッソを一口飲んだ。