小説は眠らない
当時はろくに物も書けない時代だった。そんな時代に鬱屈としていた世捨の物書きが、久々に筆を取る。
外から帰ってラジオを着けると、聞くに値しない放送が、つらつらとノイズ混じりに流れていた。聞くに、どうやら戦争は続いているらしい。少し耳障りではあったが、ラジオを切る気は自然としない。置かれていた筆をとり、無造作に置かれた原稿を取り出して手を動かす。生み出されるのは淡々とした文。動かし始めた手は意外と止まらないものだった。何年ぶりかの快調、話が泉のように湧き出てている。それを一つ一つ文字に起こせば、人物は意気揚々と踊り出す。ああまことかな、この幸せは。こんな感覚久しぶりであった。筆は未だ止まることを知らない。
出てくるのは一人の男。都会の中で一人、靴を磨いてはその日を生活している。荒れ果てた街中でも懸命に生きるために靴を磨く。何故なら一つの思いがあったからだ。彼には昔、妻がいた。見合いで出会った人だが、誰よりも愛した人である。彼女は優しい女性であったのだ。だが今はいない。死んじまったのだ、空から降ってきた炎に焼かれて。それは惨いものだった。骸が果てるまで彼は泣いた。泣いて自分も死のうと思うた。一度は死のうと思った男よ、川で沈むとした時に少年を見たのだ。服のボロボロな少年は靴を磨いていた。あまりの必死さに彼は目を奪われる。何故磨いているのかと聞いたなら、
「親がいないが弟はいるから」
と言うのだ。男は胸を強く打たれた。親が死んでも少年は残された家族のために頑張ってるというのに、女一人死んだから後を追おうした自分が馬鹿馬鹿しくなったのだ。死んでも彼女は喜ぶかと思えば、よく考えたらそんなこたぁない。だから彼は生きようと思った。兎に角生きようとした。手始めに少年がやっていた靴磨きをしようと始めた。そうして今、彼は廃れた街で靴を磨いている。少しでも長く生きていようと。それが死んだ妻への手向けと思うて。
……実をいうと、この話は先程散歩に行った時に見かけた人々から着想を得た話なのだ。必死で生きようといろんな形で生きている人々が街にはいた。皆が皆あの炎から焼け出されて、全てを失った筈なのに頑張って生きるもんだから心を打たれた。そしてあっしは書きたくなったのだ。この眼に必死で生きる人間を書いてみようと思ったのだ。それが自分にできる唯一のことだから。
思えば近頃はここまで書きたいと思ったことはなかった。何故なら、書きたいものを書いては悉く破り捨てられたのだから。どうやらあっしの書くものはいけないものらしい。戦争賛美のもんしいけないらしい。酷いもんだ。あっしは戦争なんか知らないから、賛美なぞできるわけでもなし。全く窮屈な世の中だと、ここまで恨めしく思ったものもない。その世の中に押し潰され、極め付けはあの空襲だ。幾度も爆弾が落ちてきおって、書いたもんは全部燃えてもしもうた。その炎はあっしの身も心も灰にしてしもうたようだった。じゃが、あそこまで懸命に生きている人々を見て、自分もこのままではいかんと思うたのだ。さながら、今書いている話の主人公のように。しかしこいつも世には出せぬかもしれない。けんど取り敢えず、今は書こうと思う。炎天下の中蝉がそれしかできないと鳴くように、あっしは書こうと。書かなけりゃあやってはいけんのだ。
ラジオは放送をやめようとはしない。相変わらずノイズは酷いが、やはり付けっ放しのままにしておいた。切る暇があるんなら書く方が先決なのだ。
手が痛む、肩も痛む、頭も痛む。この痛みは喜びの痛みだ。書けるということができる、書いているということを実感できる痛みだ。この痛みほど物書きにとっての幸せを実感できるものはないだろうて。だから痛み続くとも手は止まらんのだ。
時が経つのも忘れて、血眼になって書いてみれば一日経つのもあっという間だ。ラジオは今度は難しい言葉の羅列を放送を流しているし、外では人が泣き叫ぶような音が聞こえてくるが知ったこっちゃあないのだ。物語はいよいよ大団円に、いや新たなる始まりを迎えようとしているのだ。あっしが今は書けない先へと続くところを迎えようとしているのだ。最も力を入れて書かなきゃいれないところを書いてしまわな、この気持ちは止められない。
「出来た……!」
そうして出来上がった原稿を、あっしは無意識のうちに天に掲げていた。喜びだ、ただ喜びしかなかった。飢えた獣が大物を手にした気分も、きっと今のあっしと同じなんだろう。書き終えた原稿は丁寧に纏めて机の引き出しにしまう。すぐには出せない。そういうご時世だ。
上機嫌で外へと出ると、とある知り合いの婦人が泣いておった。この婦人は中々はつらつな方で、到底泣いている姿なんか一度も見たことはない。だからびっくりした。そしてよくよく周りを見たら、どうやらここにいる人の殆どが泣きはらしたような感じだった。
取り敢えず隣にいる婦人に、
「一体どうなすった?」
と聞いてみれば、驚いた顔で彼女は嗚咽交じりに言ったのだ。
「あんた……知らないのかい! 日本は憎き鬼畜米兵に負けたんだよ! 戦争に負けたんだよ!」
婦人はまたしても泣き叫んだ。その光景にあっしは呆気にとられていた。
正直に言えば、あっしには負けたのかという気持ちにしかなれなかった。小説を書いている時点で世を捨ててしまったようなものだし、世の情勢にもそこまで興味があるといえば否だ(ただし小説関連のことは別だ)。だから悲しむことなど全くないし、それ以上にただこう思っていたのだ。
「んじゃあ、出そう」と。
道が開けたようだった。いつまでも眠ると思われた小説が世に出せるかもしれない、その小説をここで打ちひしがれてる誰かの手に取ってもらえるかもしれない。そしてそれを読んで立ち上がってくれるなら、それはもう本望だ。
不謹慎かもしれんが、あっしは嬉しさのあまり、どうしても笑いたかった。そんなあっしの代弁をするかのように一段と蝉は鳴いていた。歓喜の大合唱がそこに響いていたのだ。
小説はもう、眠らない。
誰か段落が反映しない理由を教えてください。
あと作者的にこのキャラ好きです。