東雲愛華
僕は学校が嫌いじゃない。友達や綾篠さんがいる空間はむしろ好きなのだ。けれど学校が嫌いじゃないという言い方をしているのは勉強は嫌いだという事で、僕の成績は恥かしい事に恥かしくて言えないが決して良くはない。中間テストまでまだ時間はあるけれど、いや時間があるからこそ今から備えておかないと僕の頭では数学、化学等の理系科目には太刀打ちできない。入学早々に勉強についていけなくなってしまっては、きっと卒業するまでずっと苦労してしまう。
というわけで僕は今、図書室で綾篠さんと勉強しているのだ。
「……飽きたわね。少し休憩しましょ?」
「まだ30分しか経ってないだろ」
僕の言葉を無視して隣に座っている椅子を近づけ、机の下でゆっくりと僕のふとももを弄りながら、ふわりと長い黒髪を揺らし僕の顔を覗き込んだ。
「勉強ばかりしていると馬鹿になるわよ?」
「バカだから勉強しているんです」
「それを自覚してるなんて意外と頭が良いのね」
「貶しながら褒めますねぇ!」
納得ができない。綾篠さんはおよそ真面目に勉強しているようには見えないけれど、とても成績が優秀で各科目の小テストではほぼ満点なのだ。人目には触れず自宅ではたくさん勉強しているという事なのか? もしかすると意外と勤勉なのかもしれない。何か良い勉強法があるならば是非とも教わりたいと思った。
「綾篠さん。いつも家ではどんな勉強をしてるの?」
「そ、そんな恥かしい事聞かないで欲しいわ。いやらしい」
「僕は恥かしい事もいやらしい事も聞いてない」
そんな綾篠さんを横目にぐるりと図書室を見渡す。
放課後の図書室は意外にも人が多い。僕達が座っている長机にもまばらながらに他の人が座っているし、本棚に向かって本を探している人も結構いた。常に閑散としていた僕の通っていた中学校の図書室と比べると、えらい違いだ。それもそのはず、今年度から大学受験に向けて勉強する生徒もいるのだ。ここにある参考書等も良きツールになるのだろうと思う。大学。進路。将来。僕が考えるのはまだ早いのかもしれないけれど、いつかは考えないといけない事だ。高校を出てちゃんとやっていけるのだろうか?
僕はため息をついた。
「……何かしら? 私といるのがそんなに嫌?」
「あっ! いや、そういうわけじゃ……!」
思わず大きな声を出してしまい、図書室中の生徒の視線が僕に注がれる。
「……っ!」
「あらあら。羞恥プレイが好きなのね」
恥かしさに顔を伏せる僕に突き刺さる綾篠さんの言葉には心の中で突っ込んでおく事にする。ゆっくり伏した顔を上げていくと、向かいに座る生徒の手元が見えてきた。開かれたノート、参考書、教科書、そして古い辞書のような厚い本。僕の視線はその辞書のような本でピタリと留まった。
文字が、流れている。
日本語としておかしいかもしれないが、文字が流れているのだ。その生徒がノートに書いてる文字や教科書や参考書のページに書かれてある文字が、まるで蟻の行列のように辞書の方へ長机の表面を滑って行き、その辞書の隙間に入って行く。僕は息を呑んでその光景を見つめていたが、やがて視線をそのままゆっくりと上げていく。その先にいた生徒は見た事のない女の人だった。他のクラスの人なのかもしれないけれど、上級生なのかもしれない。少し長めの髪をオシャレに束ねている。
背筋を伸ばし、すごく綺麗な姿勢でノートにペンを奔らせてはいるものの、文字が流れていく光景はあまりにも異様だった。
その時、凄まじい程の殺気を感じ僕はとっさに長机の上に置いてた右手を避けた。
ダンッ!
と大きな音を立て、僕の右手があった所に綾篠さんがペンを突き立てた。
「あ、あぶなっ! 今のは避けなかったら刺さってたでしょ!」
「他の女に見とれる浅木君には優しすぎるくらいの罰だと思うけれど」
「いや罪深すぎる!」
そんな僕達のやり取りがうるさかったのか、向かいに座っていたその女の人はペンを手から離し、開いていたノートをパタンと閉じると僕達に目を向けた。
「図書室では静かにするものなのだけれど?」
鋭い視線が僕達に突き刺さる。当然返す言葉もない。
「す、すいませ――」
「うるさいわね。あなたに言われたくないわ」
「ちょ、綾篠さん!?」
悪びれるどころか、おもむろに言い返す綾篠さんがここにいる。
「さっきからそれ……」
そう言って辞書をスッと指差す。
「食事なら違うところでお願いしたいわ」
綾篠さんの言葉にその女の人の眉がピクリと動いた。お互いの視線が鋭く絡み合う中、状況が飲み込めない僕はとりあえず神妙な面持ちで冷静を装う事にしていたが、やがて女の人はふぅと小さく息を吐くと静かに席を立ち図書室から出て行った。その背中にため息混じりに綾篠さんが呟く。
「世の中には変なものを飼う人が多いのね……」
それは意味深な言葉だった。
「それは、あの辞書の事? それともミコを飼ってる僕の事か?」
「いいえ。浅木君を飼ってる私の事よ」
――・――
東雲愛華。
あの女の人の名前だ。実は校内随一の秀才でその学力は県内トップレベル。彼女の進路には先生方も期待を寄せる程の有名人だった。僕と2つしか違わないけれど落ち着いた雰囲気は確かに知的で素敵だ。綾篠さんも黙っていればそういう人になれるかもしれないけれど、きっとそれは無理だ。綾篠さんは落ち着いてるわけではない。根暗なのだ。ただし根は暗くとも葉を上手に使う事で校内では善人ぶっている。もはや根暗というより詐欺師に近い。
それでも東雲先輩と綾篠さんはどこか似ている。どこか? と聞かれても上手く答えられないけれど、何と言うか本性というか本音というか……素の部分が見えない。ああ、そうだ。こう言ったら伝わるだろうか?
――底が見えない。
――・――
僕は1人で放課後の教室にいた。
化学の小テストの点数が悪すぎて補修を受けるはめになったのだ。それもこれも僕に勉強を教えると言いながら、その実、邪魔しかしていない綾篠さんのせいだ。と、思ったけれどそれは違う。本人の綾篠さんは満点を取っているのだ。単に僕のスペック不足か努力不足なのだろう。
補修では先生とマンツーマンで何度も同じ事を繰り返し説明される。補修を受けたのは初めてだけれど、これは過酷な試練だと痛感した。そして心に誓う、今度からは1人で勉強しよう、と。
補修が終わる頃には18時を回っていて、校内には部活生や先生達しか残っていなかった。もちろん綾篠さんも「浅木君がいないうちにする事がある」と言って先に帰ってしまったので居ない。早く帰ってミコにお願いしないとな。なんて考えながら玄関に向かうと東雲先輩にばったり出くわしてしまった。
図書室の一件もあり、気まずい空気が流れる。
「い、一年の浅木幸太と言います。先日はすみませんでした」
「いいえ。私も大人気なかった。ごめんなさいね」
相変わらず、すごい落ち着いた雰囲気だな。
「浅木君、喉、渇かない?」
「喉ですか……?」
いつの間にか僕は東雲先輩と駅前の喫茶店にいた。
駅前という立地もあり夕食の時間にはまだ早いけれど家族連れの客もいて、それなりに席は埋まっていた。その中で僕達は窓際の席に向かい合って座っているのだ。
「……過激な彼女さんね」
運ばれてきたコーヒーに口を付けて東雲先輩が呟く。
「そ、そうですね」
「他人事に口出しするともりもないけれど、ペンは危ないよ?」
「騒がしくしてすいません」
「いいえ、それは気にしてないの」
――それは、気にしていない……。
では何を気にしているのか?
東雲先輩の澄んだ瞳が真直ぐ僕を捉える。僕はそこから目を逸らせない。その東雲さんの瞳には何か人を惹き付けるような力があった。違う。惹き付けるんじゃない、引き込むような、だ。
「――ねぇ、浅木君」
東雲先輩の赤い唇が微かに動いて僕を呼ぶ。
そしてテーブルに肘をつきながら、ぐっと前に身を乗り出す。
「もっと寄ってくれない? あまり声を出すのは得意じゃないの」
僕はその瞳に吸い寄せられるように、東雲先輩と同じ様に身を乗り出した。何かがおかしかった。おかしいというのは抽象的すぎるかもしれないけれど、それしか言い様がない。喫茶店の中だというのに音楽が聞こえないし、他の客もいなくなっているのだ。正確にはそれは耳には入っているし、客も視界には映っている。
ただ、聞こえないし、見えない気がするのだ。まるで何かに集中しすぎて周りが見えなくなってしまっているかのような感覚。それを強要されている感じなのだ。
「彼女の名前は?」
「綾篠、七海です」
「同級生なの?」
「はい、同じクラスです」
「怪奇現象には詳しいのね」
「はい。とても詳しいです」
「彼女に、私に関わらないように忠告してもらえる?」
「……はい、わかりました」
「もし彼女がいなくなったら悲しいでしょ?」
「え……?」
「……浅木君、猫でも飼ってるの? 肩に毛が――」
東雲先輩が僕の肩に触れた瞬間、ハッと我に返った。
店内にハッキリと音楽が流れ、家族連れの客の談話が聞こえる。目の前には驚いたような顔をしている東雲先輩がいるけれど、すぐに僕を真直ぐ見据えて微笑んだ。僕は何が起こったのか分からないまま何かとてつもない違和感を感じたていた。そして恐怖が身体を突きぬけたけれど、それは違和感に対する恐怖じゃない。
心地良いのだ。東雲先輩に見つめられて声を聞く。
その空間が何とも心地良くて……怖かった。
「あ、あのっ! 申し訳ないですけれど、そろそろ電車が来るので失礼します!」
「あら、まだいいでしょ?」
「すいませんっ! 失礼します!」
僕はなるべく東雲先輩と目を合わさない様に伝票を手に取ると、会計を済ませ足早に喫茶店を後にした。危険な感じがしたんだ。この感じは似ているんだ。
……綾篠さんと。
息を切らせて家にたどり着いた。
まだ胸の中に恐怖が残っている。何でも見透かすような澄んだ瞳、人を魅了するような赤い唇、心の芯まで響くような声。東雲愛華という人間は今まで僕が出会ってきた人のそれとは全く違う。
食欲もない僕は帰宅すると真直ぐ2階の自分の部屋のドアを開ける。その瞬間、下腹部に強い衝撃を受けた。
「ふぐ――!?」
ドアを開けるのと、僕の口から嗚咽がこぼれたのはほぼ同時だった。
「お兄ちゃん遅いよ! 寂しくて死んじゃうところだったよ!」
「お、お前はもう死んでるだろ……」
ミコの頭が僕の下腹部にめり込んでいる。小学生くらいの身長のミコの頭は、何と言うか丁度良い高さにあるのだ。いや丁度悪い高さと言った方が良いかもしれない。僕は痛みに堪えながら中腰のままベットに倒れ込んだ。
「お兄ちゃん大丈夫? さすってあげようか? それとも、こすってあげようか?」
「……ど、どっちも同じじゃないか」
「もしかして腫れちゃったかもしれない! 診てあげる!」
僕は目をキラキラさせて僕のズボンに手を伸ばすミコの尻尾を掴むと、ベランダに放り出し窓を閉めた。
「うぁぁん、お兄ちゃんごめんなさい。許してぇ」
窓をカリカリと爪で引っかいているミコをじっと眺める。涙ながらに許しを乞う幼女の姿は例え幽霊だったとしても気持ちの良いものではなかった。
「反省した?」
僕の言葉に窓越しに頷くミコ。
「もうしない?」
何度も頷くミコ。
やれやれと窓を開けると、窓と僕の腕の隙間を縫うようにスルリと部屋の中に入ってベットの上に飛び乗る。そして頭からシーツを被ると上目遣いで僕をチラリと見た。こういう俊敏なところを見ると、本当に猫なのだと実感してしまう。そう思うとさっきぶつかって来たのも自分が普通の猫のつもりだったのかもしれない、少し気の毒な事をしたなと思った。
「ごめんごめん」
シーツの上からミコの頭を優しく撫で、そのまま喉に手を回してゆっくり擦る。
ごろごろと上機嫌に喉を鳴らすミコは昔のままだ。
――・――
あんな1件があったせいで僕は学校に行くのが億劫になっていた。もちろん東雲先輩に会うのが怖いという事なのだけれど、学年も違うし特別な繋がりも無いわけで、意図的に会おうとしなければ会う事はない。それでも学校に行きたくない気分になるのは、それほどに嫌な感じを受けてしまったのだろうと思っている。とはいえ、学校に行かないわけにもいかないので、重い足を引きずって登校しているのだ。
「はい。あ――ん」
「い、いや、いいよ」
僕はその落下式卵焼きから顔を背ける。
「どうしたの? 最近元気ないのね。苛め甲斐がないわ」
綾篠さんが僕を見つめるけれど、決して心配そうにしてないのが悲しい。
「この前、東雲先輩に会って『私に近づくな』みたいな事を言われたんだけど、あの辞書みたいな本が理由なんだろ?」
「...そうね。文字を食べる霊なのだけれど、本にとり憑いてるみたいね」
文字を、食べる。
とはまた奇怪な霊だと思った。綾篠さんの言う『食べる』が普通に食事の意味なのかは分からないけれど、現場を見た限りではまさに『食べる』行為そのものだった。
しかし分からない。それを見てしまった事がなぜ関わらないで欲しい理由にるのか?
「東雲は試験の時にその霊を自分に憑依させてる。霊と記憶を共有してるのね。それはいわばカンニングしてるって事でしょ? それを知られまいと釘刺すなんて小物にも程があるわ」
なるほど。それでは成績もトップクラスになるわけだ。しかし、霊をまるで便利な道具のように扱うなんて普通では考えられない。よほど霊現象を熟知していないと恐ろしくて出来ないような事なのだ。
「釘なんて刺されなくとも、そんな女には興味なんてないけれど...」
ずい。
綾篠が机に膝をついて身を乗り出す。鼻が触れ合う程の距離で、もはや綾篠さんの瞳孔しか見えない。
「それは、いつ、どこで、どうやって聞いたのかしら?」
...!
まさかそこを突っ込んで来るとは思わなかった。東雲先輩2人きりで喫茶店にいた、なんて正直に言える雰囲気じゃないけれど、上手い言葉は見つからない。
「言えないのかしら?」
ごくりと息を呑む。必死にこの場を切り抜ける回答を探すけれどダメだ。何1つそんなもの浮かびはしない。答えに窮する僕を見つめたまま綾篠さんは、ふっと体を離し立ち上がった。
「...殺す」
「ひっ...!」
深く沈んだ瞳を僕に向け、ふらつく足取りで迫って来る。まさか学校の教室で死刑実行ですか!? なるべく雰囲気を良くしようと無理矢理笑顔を作る僕。
「じょ、冗談だよね?」
「……ええ。動かないでじっとしててね?」
全く僕の言葉は耳に入ってないらしい。
僕から身体を離した綾篠さんは、ゆっくり丁寧に弁当箱を鞄にしまった。そしてそのまま鞄の中から鋏を取り出すと、ガタリと席を立った。その椅子の音に身体が強張る。静かな微笑みを浮かべる綾篠さんの背後から黒いオーラが放たれる。
僕は悟った。僕の人生もどうやらここまでらしい、と。
「浅木君はここにいて、ね?」
綾篠さんは僕の頬をすっと撫でるとフラフラと教室から出て行った。僕は助かったのか?と要領を得ないままに呆然としていたが、やがてふと気付く。
違うのだ。
死刑はまさに実行されようとしているのだ。ただそれを受けるのが僕ではなかったというだけなのだ。受刑者はおそらく東雲先輩だ。僕は思わず教室を飛び出した。
綾篠さんを止めなくちゃ。と思った。
ここで東雲先輩を庇ったらまた変な誤解を生むかもしれないとも思ったけれど、綾篠さんの事だ。死刑は間違いなく実行されるはずだ。彼女を人殺しにはさせたくない。東雲先輩の教室がどこにあるのかわからなかったから、手当たり次第3年生の教室を回って見た。けれど、東雲先輩は見つからなかった。
では、東雲先輩はどこにいるのか?一瞬考えたがすぐその回答は見つかった。それは単純。おそらく「食事中」なのだ。
――・――
僕は息を切らせて図書室の前にたどり着いた。
けれどその扉に手をかけたが、それを開ける手が止まった。扉についているガラス窓から僕の目に飛び込んできたのは、長机に足をかけた綾篠さんと、それに向かい合う形で座っている東雲先輩の姿だった。綾篠さんの手にはしっかりと鋏が握られ、刃を東雲先輩に突きつけている。少ないながらも周りには他の生徒がいるのだけれど、この2人の異様には気にもとめずそれぞれ参考書を開いたりノートにペンを奔らせたりしている。そんな空間に強烈な違和感を感じ僕の手が止まってしまったのだ。
「綾篠さん、あなたが何をそんなに怒っているのか知らないけれど、他人に鋏を向けるなんて良くない事なんじゃない?」
「残念だけれど、私の鋏はそれが許されてるの」
相変わらず滅茶苦茶な事を言っているけれど、もちろん許されるわけがない。
「そんなに私が気に入らないの?綾篠さん」
「……ええ」
「蟲食なんて小さな瘴霊なんて放っておいて欲しいのだけれど」
「そんな事私は気にしてないわ」
「あら。じゃあ何でそんなに怒っているのかしら?」
「……」
鋏を向けられた東雲先輩だったけれど、その刃物には全く動じずむしろその表情には微笑さえ浮かべている。余裕。があるのだろうか?
「あなた浅木君と付き合っているのね」
東雲先輩の言葉に綾篠さんの眉がピクリと動く。
「綾篠さんが好きになるのも、なんとなく分かる気がするわ」
綾篠さんの鋏を握る手に力を込めらていく。
「彼、可愛いものね」
東雲先輩がクスリと微笑みながら言い放つ。
その瞬間、綾篠さんは手に持っていた鋏を東雲先輩の前に広げていた本に突き立てた。辞書のように厚いその本は見た目とは裏腹に簡単に綾篠さんの鋏を飲み込んで、鋏の刃がガツンと机に当る音がした。突き刺された本はもちろんただの本で、無機物なのは間違いない。間違いないのだけれど鋏が刺さったその本はまるで生き物の様にぐねぐねと動き、開かれたページは波打つように歪な動きをした。そしてそれはやがて次第に収まり、ピクリとも動かなくなった。
「酷い事をするわね。気に入ってたのに」
「だったらもう私に……いいえ、浅木君に近づかないで頂戴」
東雲先輩は微笑みを浮かべたまま、ええ。と頷いて席を立つと廊下に立つ僕の方へ歩いてくる。僕を挟んだ図書室の扉に手をかけたところでふいに東雲先輩が止まった。
「食蟲……私には目には見えないのだけれど、浅木君には見えるらしいわね。綾篠さんには見えるのかしら?」
扉に手をかけたまま振り返らず東雲先輩は言う。
「……」
綾篠さんからの回答はなかった。
ガラリ。と音をたて東雲先輩が扉を開ける。僕はバツの悪い気分で目を逸らした。東雲先輩は僕がここにいた事を知っていたかのように微笑みを浮かべる。
「またね、浅木君。今度は喫茶店よりも良い所に行きましょ……綾篠さんには内緒で」
すれ違い様に僕にそっと耳打ちする。僕は目を伏せたまま黙っていた。顔を上げてその瞳に見つめられると本当に連れて行かれる様な気がしたんだ。東雲先輩は僕の横を通り過ぎるとそのまま長い廊下を歩いて行った。
開け放たれた図書室の扉を恐る恐るくぐると背を向けた綾篠さんがいるのだけれど、何と声をかけたらいいのか分からずに僕はその小さな背中を見つめていた。
「今日の……」
綾篠さんが僕に背を向けたままボソリと呟くように言う。
「放課後、まずは喫茶店でお茶しましょう」
東雲先輩への対抗心か喫茶店なんて言い出す綾篠さんだった。
けれど気になる。
まずは。
という一文。