006
俺は七節の言っていた言葉の意味を考えていた。
成せば成る、だ。
昔、俺は以前に同じことを違う人から言われたような気がする。
高校三年生。最後の一年で出会った、不思議な少女。
あの最後の冬を、俺は忘れるはずがない。俺はあの時、異常を目指していたのだから。
その時、俺は大切なものを沢山失ったのだから。
最後の講義が終わったのは、一九時半。そこから更に数分経ってから、講義室を出た。
講義の内容なんて、憶えてない。
ポケットに隠しておいた檜製の杭が、歩を進めるたびに手にあたる。
チャンスはあった。
度胸はなかった。
俺に彼女の心臓を刺すことは、できなかった。
「……とにかく、あなたとは交渉決裂ね。他をあたって頂戴」
スクーターに乗ろうとした時、またあの広場から、またあの声が聞こえた。
七節迷花。人間の姿をした、ヴァンパイア。
もう関わりたくない。俺は普通でなくてはならない人間なんだから。
けれど、あの時とは少し状況が違った。
「残念だよ……同族として実に残念だ」
男の声だった。しかも、ちょっと老けたような。
「人間嫌いのキミなら、ぐうの音も言わずに呑んでくれると思ったのだが」
「確かにわたしは人嫌いよ。慣れ合いたくもないし、関わり合おうとも思わないわ。だけど、時々だけど、羨ましくなる時はあるわ。もしわたしが人間だったらって思う時もある。けれど、わたしは所詮ヴァンパイア」
一瞬の、間。
「ヴァンパイアは……人間にはなれない」
その時の声は、枯れていた。
重みのある、乾燥した声。
「人間にはなれないか。当然だ、人間はヴァンパイアに食われる存在。餌にすぎないのだからな」
黒衣の男は笑う。
とにかく、嘲笑っていた。
「トマトジュースばかり飲んでいると、どうやら甘い考えを持ってしまうようだな」
「そうかもしれないわね」
皮肉。
男の声には、皮肉の念が伺えた。
「人間を庇う者は、いくらヴァンパイアであろうと同族とは認めぬ」
「そう。それはつまり、どういうことかしら?」
「異族として、滅んでもらう」
「笑えないジョークね。ブラックジョークにもならないわ。滅び行く種族がどちらなのか、あなたには分からないの?」
緊張の糸が、
「滅ぶのは……ヴァンパイアよ」
切れた。
七節の長い髪が空中に舞いあがる。月光に照らされて、黒く、妖しく、光っていた。
「避けたか」
男が握っているのは、銀色に光る針状の剣。フルーレだった。
空を切ったフルーレは、七節の心臓のあった位置で止まっている。
「スポーツで使うものを武器にするのはタブーよ」
「生憎、フェンシングは嫌いでね。歩き方といい、格好と言い、見ていて気持ちの良いものとは思えない。それに、人間の作ったものなど気に食わん」
「そうかしら?わたしは好きよ、あの恰好」
フルーレの空を切る音が響く。
あの男、七節を殺す気だ。
「このフルーレは銀でできている。銀は昔より神聖な意味を持っているのだ」
「それはさぞかし化物退治には有効そうね」
一振り、二振り。空を切る音は連続する。
ずっと見てなどいられない。
しかし俺にできることはあるのだろうか?
俺は英雄ではない。俺は普通だ。
特殊な能力もない。身体能力が高い訳でもない。頭も良くない。
だけど、これだけは言える。断固として。
俺は普通だ!普通の人間なら、彼女を助ける義務があるはずだ!
「七節!」
俺はその場を飛び出し、男と対峙する。
「田中君……出てくるのが普通すぎるわよ」
「登場を指摘された!」
「でもいいわ。あなたの取り柄は普通なところなんだから」
言われた。
生涯で初めて、そんなことを言われた。
「人間か……餌ごときが邪魔を」
フルーレの矛先が、俺へと向けられる。
対する俺の武器は四センチの檜製の杭のみ。
どちらが勝つかなど、目に見えていることだった。
「餌ごときがこの私に勝てるとでも思っているのか?」
「知ってるか?スライムだって配合次第ではグレートドラゴンにすることだってできるんだぜ」
雑魚だって、強くなることはできる。
それも、無限にだ。
「立場が分かってないようだな。これは食物連鎖なのだよ。鳥が虫を餌にするように、キサマは鳥に狙われた虫けら同然なのだよ!」
瞬間、何か細いものが、俺の胸を貫き通していた。
「あ……カハッ!」
そこにあったのは、銀色に光るフルーレ。
フルーレが、俺の胸を貫いていた。
「静かに眠るがいい……永遠にな」
まだ、死ぬ訳にはいかない。
「くっ!……何故死なない!」
一歩、二歩と足を前へ出す。刺された痛みなど、気にしていられない。
一、二、一、二。
刺された場所から、一滴、二滴と血の滴が落ちる。
「残念だったな……」
杭を、心臓に打ち込む。
「俺の心臓は……真ん中寄りなんだよ」
刺されたのは、胸の外側。
心臓は、貫かれていない。
「クックック……そうか、そうなのか」
「心臓を貫かれて狂ったかしら?」
「狂ってなどいない。楽しいのだよ。まさかヴァンパイアが人間に遣られるとはな……貴様、名は?」
「田中……太郎……」
「田中太郎……そうか。憶えておこう、地獄の底まで」
ヴァンパイアは消えた。存在ごと。この時空から。
「田中君……あなた、死ぬの?」
「さあな……死ぬかもしれないし、死なないかもしれない」
「生きる気がないなら死になさい」
「もうちょっと……心配……しろよ」
視界が、暗くなる。
身体に力が入らず、膝から倒れそうになる。
でも、それでも。
「……死んだら駄目」
七節は、支えてくれた。
七節迷花とは、俺に死ぬ選択肢すら与えてくれない。コイツは本当に、本当の意味で、ツンツンなのかもしれない……。