006
体育館では、シューズが床を擦る音と、バスケットボールが弾む音だけが響く。
バスケットコート内では、七節と遠山が試合をしていた。
二人だけの、バスケットボールの試合。
何だか、すごく新鮮だ。
持ち前の運動能力とスキルを、余す事無く、ぶつけ合う。
天才と秀才。
お互いに、勝ちを譲ろうとはしない。
七節のフックシュートが決まったかと思うと、遠山のダンクシュートが炸裂する。
見てるこっちは、固唾を呑むばかりだ。
一〇分間の激闘。そして、タイマーのホイッスル音が鳴り渡り、試合終了。
結果は、僅かながらにして、七節の勝利。
本当に、差の出ない戦いだった。
「あの……七節先輩」
「何かしら?」
「その……わたしの我が儘に付き合ってもらって、本当にありがとうございました!」
遠山は、七節に頭を下げる。
一から十まで、律儀のある奴だ。
「良いのよ別に。後輩の世話をするのが、先輩の仕事でしょ?」
「えっ?こ、後輩!?」
呆然とする、遠山。
口が開いてしまっている。
「田中君の後輩という事は、わたしの後輩でもある。何か違うかしら?」
「い、いえ!う、嬉しくてつい……」
「当然の事をしたまでよ」
七節は、タオルで額の汗を拭き、スポーツ飲料水を飲む。
いつもと変わらぬ、澄まし顔。
ほんと、人の気持ちを、上手くくみ取れない奴だな。
「良かったじゃないか遠山」
「はい!田中先輩といて、こんなに得をした事は他にありません!」
逆に言えば、他の事はほとんど無駄という事か。
嘘を吐かないとはいえ、物事をはっきり言う奴だ。
そういうところが、若干だけど、七節と似ている。
ただ、決定的に違うのは、故意で言っているのか、そうでないか。
故意で毒舌を吐く七節と、自然に出てしまう遠山とでは、罪の重さが変わる。
故意と過失。
重罪と軽罪。
その差は、天と地ほどの差がある。
「なんだか、不遇な事を思われた気がするわ」
そんな事を、七節は突然呟いた。
いきなりだったので、戦々恐々としてしまったが、再びスポーツ飲料水を飲み始めたので、そっと胸を撫で下ろす。
「えっと……水はここだっけ?」
遠山が、鞄の中にある水を探している時、俺は、遠山の鞄の中から僅かながらに、古い本のような物が入っているのが、目に着いた。
気にする事でも無いのかもしれないけれど、やっぱり、気になる。
興味本位として、だ。
「遠山、その中にあるその本は何だ?」
「えっ?ああ、これですか?」
遠山は、水と共に、本を引っ張り出す。
表紙には、見た事も無い文字のような物が記されている。
「演劇部がたまたま道端に捨ててあったこの本を拾って、今日の演劇に使ったそうです。それをわたしが後から貰いました。何だか、ファンタジックっぽかったんで」
普通、道端に捨ててある本を演劇に使うだろうか。
まあ、そこはどうでもいい。俺が本当に気になるのは、こんな立派な本が、何故道端なんかに捨ててあるのかという点だ。
偶然にしては、出来過ぎている。
もしかしたら、何かあるのかもしれない。根拠は無いものの、こういう時の俺の勘は、鋭い。
まったくもって、迷惑な勘だ。
「それ、エトルリア文字に似てるわね」
七節は、空になったスポーツ飲料水のペットボトルを床に置いて、本を指差す。
「エトルリア文字?」
「猿にでも分かるように説明すると、西方ギリシャ文字から派生して、ギリシャ文字と共にラテン文字の形成に影響を与えたものよ。ちなみにラテン文字というのは、わたし達がよく使う英語のアルファベットの事。ここまで言えば、幾ら田中君でも分かるはずよね?」
「猿レベルにまで下げてくれて、助かるよ」
「お安い御用よ。ボルボックスの知能までレベルを下げるのは、案外辛い事なのよ田中君」
「何だか俺が迷惑かけたみたいじゃないか!」
「かけてるじゃない」
ボルボックスのレベルまで下げてくれとは頼んでないが、確かに、説明を要求してるのは俺だ。
やっぱり、こういうのって、迷惑なのだろうか……。
「訂正するわ。田中君に説明するのは楽しいわ。最高よ」
「いきなり態度変えやがった!」
褒められても、全然嬉しくない。
掌を返す。
「という事は、ここには何か書かれてるって事ですよねっ!?」
「そういう事になるわ」
胸を躍らせる遠山。
冒険の予感。
「でも、エトルリア文字だっけ?そんなもの、解読出来る人なんているのか?少なくとも、俺の知っている限りでは、そんな考古学者じみた奴はいないぞ」
「じゃあわたしが、その考古学者じみた奴の一人目になるわね」
そう言って出たのは、勿論お馴染みの、七節迷花さん。
コイツ、超人か。
「以前、考古学者を目指していた時に読んだ本の中に、たまたまあったの。今でも、おおよそは憶えていると思うわ」
考古学者から保育士か。
その間に何があったか分からないが、全く関係性が見当たらない。多分、何かしらの転機はあったのだろうと思うけど。
まあ、とりあえず今ので分かった事は、七節の知識には、底が無いという事だ。
歩く百科事典と言っても、過言ではない。
やっぱり、末恐ろしい奴だ。
七節は本を開き、時折首を傾げながら、読み解いていく。
元より何も出来ないし、読み解こうという努力すら無い俺は、七節が解読し終えるのを待つしかない。
遠山はと言うと、七節の隣に立って、本を睨んでいる。
いや、ただ睨んでいるのではなく、多分、少しでも読み解こうと、努力しているのだろう。
ちょっとの才能と、沢山の努力。
エジソンが言いたかったのはきっと、遠山みたいな人間の事だったのだろうな。
「うん、大体は分かったわ」
七節がそう言って頷いたのは、本を読み始めて数一〇分ぐらい経った頃だった。
「分かったのか?」
「おおよそね。エトルリア文字に近いと言っても、完璧にエトルリア文字ではないから、読めないところもあったわ」
おおよそ読めただけでも、凄いと思う。
俺にはサッパリだからな。
「わたしはサッパリ分かりませんでしたよ……」
肩を落として、溜息を吐く遠山。
まあ、読めないのが普通だ。原形の文字も知らないのだから。
「掻い摘んで説明すると、これはとある勇者の日記よ」
言い切る七節。
思わず、呆然としてしまう。
「ゆ、勇者……ですか」
どうやら遠山も、俺と同じ状況に立たされているようだ。
頭には、クエスチョンマークが浮かんでいる。
「勇者の冒険の記録、といったところかしら」
「ちょ、ちょっと待ってくれ七節!確認をさせてくれ」
「何かしら?」
「その勇者っていうのは、つまり、RPGとかに出てくるあれって事だよな?」
「それ以外に何があるのかしら?」
「えっと、そうだな……」
それ以外……何もないな。
どうやら、またアルバイトの時間がやってきたようだ。
あまり、嬉しくもないが。
「という事は、魔王もいるという事ですね!?」
遠山の目が、輝いている。
まあ、一応将来の夢だからな。魔王を倒す事が。
「そうね。魔王の事も書かれているわ。ただ……」
七節は、本のページを捲る。
捲られたページには、文字は読めないが、明らかに走り書きのような、他のページの文字とは異なる雑な文字が記されていた。
「ここの部分、これは記録と共に、遺書としての役割も果たしているわ」
「い、遺書……だと」
つまり、つまるところ、その本を書いた勇者は、もう死んでしまっている事になる。
なんせ、遺書なのだから。
おそらく、ゲームのようにコンティニューとは、いかなかったのだろう。
現実と仮想は全く違う。
一度命を落とした人間は、二度と戻って来ないのだ。
「そこにはどんな事が書かれてたんだ?」
「そうね、大まかに説明すると、魔王は勇者を倒して、異なる世界へ自分の勢力を広めようとしているらしいわ。そして、もし自分達が倒された時は、次の勇者がこの世界を救って欲しいとも記されていたわよ」
異なる……世界。
「まさか……その異なる世界っていうのは、俺達のいるこの世界の事か!?」
「それは分からないわ。ただ、この本がここに行きついたという事は、もしかしたらそういう事なるんじゃないのかしら」
全ては憶測であるが、もし真実だとしたら、今までのように、旨く事の収拾はつかなくなってしまうだろう。
勢力を拡大するというのだから、おそらく、魔王単独では現れないだろう。
集団を引き連れて現れようものなら、隠蔽工作は不可能。世界は、混乱に陥る。
そうなってくると、時空の歪みという程度では、事は済まなくなる。
最悪、世界の崩壊に繋がりかねない。
災厄が、災厄を呼ぶ。
負の連鎖。
それだけは、絶対に阻止しなければならない。
「あ、田中先輩何処へ行くんですか!?」
考えるより先に、足が動く。
行き先は勿論、決まっている。
「遠山と七節はそこで待っていてくれ。ちょっと、思い当たる事があるんだ」
「お、思い当たるって……この勇者の日記に関してですか!?」
「まあ……そうだな」
「じゃ、じゃあわたしも同行させてください!」
「えっ?いや……でもな」
困るという訳ではないが、細かい説明等の無駄な事は省きたい。
時間は、一秒でも惜しい。
「わたし達は田中君の言う通り、ここで待ってましょ」
意外にも、遠山の勇み足を止めたのは、七節だった。
「な、七節先輩……」
「大丈夫よ。わたし達を置いて、こんな楽しそうな事を独り占めにする程、田中君には度胸は無いわ」
何と言うか、信用されているのか、されてないのか、よく分からないな。
半信半疑。
「田中君、早く行きなさい」
「ああ、すぐ戻って来るよ。そうしないと、後が恐ろしいからな」
「拳骨一万回、針を千本呑んでもらう程度かしら?」
「定番の合言葉を再現しろと!」
痛いというより、惨い。
信頼は薄く、その分刑罰は重い。
何と言うか、とことん歪な関係。
傍から見れば、それは微妙な形なのだろうけれど、今の俺と七節には、それはそれで、十分な信頼関係だった。