002
七節迷花という人物を、俺は以前から知っていた。
知っていたと言っても話したことは皆無。直接顔を合わせたことすらなかった。まさに赤の他人と呼ぶにふさわしい人物だった。
知っていたのは彼女の噂話と、彼女が俺と同じ講義を数個受けていることだけだ。
噂話とかには興味がない俺なのだが、周囲の人間が耳にタコができるほど彼女のことを噂するので、自覚もしない内に頭の中に焼き付いてしまっていたのだ。
馬の耳に念仏。続けていたらいつか馬もお経を理解する日が来るのかもしれない。
彼女の噂を簡単にまとめるとだ。
一、とにかく美人であること。
二、頭が良いこと。
三、身体能力が高いこと。
四、トマトジュースをよく飲んでいること。
まさに平凡な俺とは違い、多彩な才能の持ち主なのである。ちなみに、俺はあまりトマトジュースは好きではない。
数十年間心の中に秘めていた、この世に完璧な人間なんていないんだ論(自論)が彼女の存在によってベルリンの壁のごとく総崩れとなってしまったのだ。
恐るべし、七節迷花。現実とは、こんなにも残酷なものだったのか。
「それで……あなたは何を聞いていたのかしら?」
冷たい視線をすぐ隣の席から感じる。感じるというより、突き刺さっている。
視線の主は七節迷花。どうやら俺はあの時見つかっていたようだ。
しかしあの展開で誰が見つかると思っただろうか。……現実とは思っていたよりも手厳しいものらしい。
「別に何も聞いてない。トマトジュースが大好きだってことしか聞いてないよ」
「一文字でも聞いたのなら、それは聞いたことになるわ。あなた嘘吐きね。嘘吐きは泥棒になってすぐに豚箱行きにされるって知らなかったの?」
「泥棒になることは前提なのか!」
我ながら頑張って勢いを封じ込めたツッコミだった。
大声なんてあげたら間違いなく俺はこの部屋を追放され、待っているのは留年という恐怖の二文字だけだろう。単位は大切だ。
しかし七節はそれとは対称に悠然としている。
まるでそれが当然であるかのように。その行動が当たり前であるかのように。
「わたしも迂闊だったわ。少し早く登校して誰もいない広場で優越感に浸っていたら、あんなことを口にしているなんて……きっとこれは組織の罠ね。わたしを嵌めようとしてるんだわ」
「自分のせいだと認めろよ」
「あら?あなたが聞いたことを認めるのならばわたしも自分の責任だと認めるわ」
「……よく考えたら俺にしかリスクがない!」
「ノーリスクハイリターンよ」
言ってることが滅茶苦茶だ。完璧な人間というのは中二病で無茶なことを言ってくるのだろうか。
「とにかく俺は何も聞いてない」
「じゃあ今言うわ。わたしはヴァンパイアよ」
「あっさりな告白過ぎてドキドキ感まったくゼロかよ!」
と、ツッコミどころが少々的から外れてしまった。
「もうちょっと粘って追及しろよ!」
「二重ツッコミなんて面白くないわよ。非常に面白くない。ハラワタが煮えたぎって焦げ付くくらいくだらないわ」
「コイツ……鬼だ」
「だって吸血鬼だもの」
まさにツンを超えたツンツンだ。ツンデレのように可愛げなんて物がない。
そういえば性格について噂を聞いたことはなかったはずだ。この性格なら仕方ない。
しかし俺は知ってしまった。彼女の性格だけでなく、彼女がヴァンパイアだということを。
しかし正直なところ半信半疑だ。こんな有り得もしない情報を鵜呑みにするほど俺はマヌケではない。ましてや中二病患者が言っていることだ。信憑性は極めて低い。
「悪いが冗談に付き合うほど俺は暇じゃないんだ。ましてや今は講義中。聞いておかないと留年しかねないからな」
「講義なんて教授のただ薀蓄を学生の前で披露するための自己満足の場じゃない。それにあのバーコードヘッド、さっきから自分の娘の話しかしてないわよ。典型的な親バカね。いつか娘の方はキモがって引いていくのに……愚かだわ」
「いいじゃないか。今が幸せなら」
「今が幸せ……ね」
その一瞬、僅かながら七節の瞳はうつろいだ。
言い表すとしたら、死んだような目。
「とにかく、講義なんかよりわたしの話が優先よ。単位なんてもう一度取り直せばいいじゃない」
「俺が留年すること前提かよ!」
ここまで俺を罵れる人間とは初めて出会った。極めて普通なのに。普通なのに、罵られた。
「わたしの秘密を知ったからには脳味噌から今までの記憶を消さなければならないゲッヘッヘ。っていう展開には残念ながらならないわ。わたしはどちらかというと組織から狙われている身だから」
「組織から狙われてるって、ショッカーか何かか?」
「ショッカーに追いかけられているんだったら自ら彼らに身を売って改造手術でも何でも受けるわ」
「ライダー志望か!」
「バッタはあんまりかっこよくないわ。ヘラクレスオオカブトとかオウゴンオニクワガタとかだったら是非なってみたいわ」
「ロケットとかは?」
「機械に走った時点でもう有り得ないわ。それならゴキブリのほうがマシだわ」
どうやらバッタとロケットはお好みでないらしい。贅沢なやつだ。改造するなら彼女は絶対に止めておいたほうが良さそうだ。
「とにかく、これでわたしがヴァンパイアだっていうことが分かってくれたかしら?」
先ほどの会話で分かったのは、そのツンツンで自分勝手な性格。重い中二病患者。以上。
「そんなこと簡単に信じられる訳ないだろう。大体、何で俺にその正体をバラそうとするんだ?黙っておけば何もしないのに」
「面白半分で噂されると困るのよ。ここで確実に正体を言っておけば軽い冗談ではなく、重い現実としてあなたは受け止めるはずだわ。それなりの一般教養があればの話だけど」
「悪いが一般教養のある俺にはお前が悪い冗談を言っているようにしか聞こえない。スマンな」
毒を持って毒を制す。
バーコード頭の教授がそろそろ場の空気を理解し、ホワイトボードにミミズが這っているような文字を書き始めた時。俺はペンを持った。
だが、それと同時に、それは起こった。
「あっ……!?」
七節迷花が、俺の首筋を噛みついてきた。しかも、不意に。
裁縫針を刺されたような鋭い痛みがしたが、それは一瞬にしてなくなってしまう。
今までに味わったことのない血の吸われる感触が、首筋から全身へ瞬く間に広がっていく。駆けていく。
声なんて、出せるはずもない。
言葉になんて、できるはずもない。
「……これで理解してくれたかしら?」
理解するも何も……理解する他何もないじゃないか。
血の引いていく寒気、恐怖、脱力感。そして、彼女の柔らかい唇の感触。
全て俺の中で起こった現象であり、俺しか知らない現象。俺が理解しなくて誰が代わりに理解しろと言うのだろうか。
「その表情は満更でもなさそうね。よかったわ」
何が良くて、何が悪いのかが分からない。
だが彼女は、こうとだけ言って黙ってしまった。それは、とても無邪気な表情で……だ。
「久しぶりの御馳走、美味しかったわ」