002
「本当にもったいないことをしたわね、田中君。二度とこんな機会は無いわよ」
そんな事を、七節迷花は呟いた。
「まあ、いいんだよ。俺はこれで良いと思ってるし」
本音は、結構後悔している。
でも、これはこれで良かったと思うし、俺が選択した事だ。責めるとしても、その矛先には俺しかいない。
「ふうん。結構欲浅なのね」
「そうかもしれないな」
俺には二人の、しかも双子の弟と妹がいる。以前から、兄として、二人に何でも譲ってきた俺は、もしかしたら知らない内に、欲が浅くなってしまったのかもしれない。
良いのか、悪いのかは別として。
「欲浅……浅い……思考回路」
「何だか嫌な物言いだな」
「あら、そうかしら?言葉を継ぎ足せば、愉快になるかもしれないわよ?」
「ほう……」
言葉遊び。
「欲浅『な人間ほど』、浅い『だけの』、思考回路『の田中君』」
「不愉快だった!」
行きつく先の毒舌。
なんとなく、分かってたけど。
「ところで田中君、何故わたしを誘ったのかしら?」
「えっ?そりゃあ、まあ」
沈黙の間。
「友達だから?」
「そう」
七節の表情は、何も変化せず、いつもの澄まし顔。
言うだけ言わせておいて、その結果がこれだ。
恥晒し。
「田中君って、ここで高校生活を送ったのね」
「ん?まあ、そうだな」
湯川高校。三年間という月日を、俺はここで過ごした。
部活もしたし、それなりに勉学にも励んだ。
だが、全てが良い思い出とは……決して言えない。
俺はここで一度、全てを失ったのだから。
一部の断片の記憶――。
無実の……罪――。
「どうしたの田中君?表情が暗いわよ」
「ん、あ、ゴメン……」
つい、謝ってしまった。
過去を思い出すのはよそう。今は、楽しまなくてはならない。
せっかくの、叶えてもらった願いなのだから。
「七節、せっかく出店があるから何か食べないか?」
校門から正面玄関までの通りには、クラスの出店が数ヶ所並んでおり、その中には焼きそばやジュースなどの飲食品も売っていた。
「わたしはいいわ。お腹空いてないから」
「あ、そうか……」
「田中君は、何か食べたいの?」
「えっと……そうだな」
とは言ったものの、俺もあまり空腹ではないし、食べたい物も、これといってない。
七節がもしかしたら空腹かもしれない、と思って気を利かせただけなのだが。
空振り。
「特にありません……」
「惨めね、田中君」
「…………」
人間、真実を言われた時は、幾らそれが毒舌だったとしても、黙ってしまう。
これ以上、自分を傷つけないために。
「それより田中君、後輩があなたを待ってるんでしょ?早く行ってあげた方が良いんじゃないかしら?」
「ああ……それもそうだな」
遠山報瀬。
俺の高校時代の後輩にして、名の知れ渡った、言わば大スター。
そんな遠山が誘ってくれた文化祭。サプライズがあるとかないとか言ってたな。
「そういえば七節って、遠山の事知ってるんだっけ?」
「遠山?……ああ、あなたの後輩の事ね。知ってると言えば知ってるし、知らないと言えば知らないわ」
「どっちなんだよ」
「だから、どちらともよ」
「…………」
言葉の綾以前に、既に言語として崩壊している。
それとも、俺にはついていけないような事を、七節は言っているのだろうか。
頭の冴えている遠山が聞いたら、果たして理解出来るのだろうか。
「何だか田中君が困ってるようだから、ミジンコでも分かるように説明してあげるわ」
「微生物からは脱せないのか!」
だから、責めて多細胞に……。
――、そういえば、ミジンコは多細胞生物だったような気がする。
だったら、責めて動物に……。
――、そういえば、ミジンコは動物プランクトンだったような気がする。
自縄自縛。
「田中君、わたしが言いたいのは、つまり、遠山さんがバスケットボールで有名なのは知ってるけど、遠山さん本人自体は知らないという事よ」
「ああ、成程」
納得した。
そういえば、七節もバスケットボールをしていたんだった。しかも、実力はインターハイレベル。
チームとしては、県大会止まりだったらしいけど。
けど、そういえば。
「でも、この前遠山はお前とバスケの試合をした事があるって言ってたぞ?」
「そうだったかしら?……まあいいわ。どちらにしても、一度見た事あるから十分よ」
「一度見た事あるって……あっ」
そういえばコイツ、俺と遠山の話を盗み聞きしたという前科があったんだっけ。
という事は、遠山が情報屋である事も知ってるし、もしかしたら、ここで近々文化祭があることも分かっていたのかもしれない。
「わたしが言いたかった事は以上よ。ボルボックスにも分かるように説明してあげたけど、田中君には少々難しかったかしら?」
「ミジンコからレベルダウンした!」
動物から、植物へ。
食う方から、食われる方へ。
「そういえば田中君、あなたの後輩のクラスの教室は何処なのかしら?」
「えっと、三年一組だから……四階かな」
「三年生は二階ではないのかしら?」
「ああ……」
まあ、それが普通らしいからな。
「実はこの高校、少し特殊でさ。学年が上がる毎に、フロアも上がっていくようになってるんだよ」
「ふうん」
訊いてきた割に、興味の無さそうな反応と、澄まし顔。
もう、慣れてしまったけど。
「歳をとる毎に、苦労が増えるという事を暗示しているのね」
「いや、それは無いと思うけど……」
階段一つにそんな嫌な意味が含ませていると思ったら、それこそ、登校する時の重い足取りが、もっと重くなってしまう。
ほんと、嫌な事だらけだ。
「一寸先は闇……」
「ほんと、嫌な事言うよなあ」
「田中君の人生が」
「ホント、嫌な事言うよなあ!」
俺の人生は、まだ明るい、はずだ。
正直、言い切れないのだれけど。
「大丈夫よ田中君、もし借金まみれになって、多重債務になって、裏金融に尻を追いかけられる破目になっても、わたしが助けてあげるわ」
だってと、七節は、いつもと変わらない表情で。
「田中君は、わたしの友人だから」
「俺が多重債務になる事前提なのか!」
友人への憐みの方向が、基本的に歪んでいる。
何と言うか、まあ、冗談なのだろうけど。
そこら辺、ツッコミの腕が試されているような気がする。
「三年一組……ここか」
階段を上って左側。空の講義室と、二組の教室の先にあるのが一組の教室なのだが、どうやら二組の教室も使って、コーナーを設置しているらしい。
講義室の前には看板が立て掛けてあり、そこには。
「田中君、どうやらジュース屋さんをやってるらしいわね」
「責めてドリンクバーと言ってやれ」
七節の言う通り、教室に机が並べられていて、その裏で生徒が紙コップにジュースを入れて、あるいは混ぜたりしている姿は、さながらジュース屋さんという表現がピッタリくるのだが、看板にはドリンクバーと書かれているのだから、きっとそうなのだろう。
ジュース屋さんより、ドリンクバーの方がネーミング的にもかっこいいし。
しかし、俺が注目したいのはそこではない。
「もしかして田中君、女子高校生のウエイトレス姿を見て、発情しちゃったのかしら?」
「俺はそんな軽弾みに発情なんてしない!」
まあ、確かにサプライズとしては強烈な物なのだが……。
表で接客をしているのは、華のあるウエイトレス姿の女子。裏でドリンクを混ぜたりして、途方な作業をしているのが、むさ苦しい制服姿の男子。
サプライズを超えてしまう、驚きの残酷な配置図。
そこには、格差社会が存在していた。
男子<越えられない壁<女子みたいな、そんな感じの絶対格差。
こんな物を見てしまうと、男って何なんだろうと、つくづく考えさせられてしまう。
「どうしたの田中君?顔がやつれてるわよ」
「うん……俺はもしかしたら、見てはいけない社会の裏側を見てしまったのかもしれない」
「家政婦は、見た」
「俺は家政婦じゃない……」
「家政婦は、ミタ」
「承知してたまるか!」
サスペンスから某人気ドラマにまで至るボケ。
ある意味、神出鬼没。
難攻不落。
「それで、田中君。あなたの後輩は何処にいるの?」
「ん?ああ……そういえば、いないな」
教室の中を覗いてはみたものの、そこには遠山の姿はない。
おそらく、他の女子に混ざり合っているとは思うのだが、何分、遠山は一般的な女子の背丈より、少し小さい。それでも、バスケットボールのスターであるというのが、遠山の凄い所だ。
ハンデなんて、幾らでも引っ繰り返す事が出来る。
それが、努力と秀才を併せ持つ者の、集大成。
「あっ、田中先輩!」
遠山は、後方にある、俺と七節が上ってきた階段から姿を現した。
手には、デカデカと三年一組ドリンクバーと書かれた看板を持っている辺り、宣伝でもしてきたのだろう。
にしても、だ。
遠山も勿論、他の女子と同様にウエイトレス姿をしているのだが、何と言うか、親しい後輩なだけに、見ようにも見れないような、そんなもどかしい思考が、俺の頭の中を巡り回る。
「あれ?田中先輩、隣の……」
「ああ、コイツは……」
「な、ななななななな!ナナ……フシ……セン……パイ?」
卒倒とはいかなかったものの、転倒。
遠山は、思わずといった驚愕した表情で、看板を手放し、一昔前のコントよろしく、腰を抜かしてしまった。
フリルの着いたスカートの下には、短パンが覗いている。
鉄壁。
「あら」
七節は、長めの黒いスカートを翻し、相変わらずの、澄まし顔。
でも、これで分かったことがある。
幾ら優秀なスターでも、幾らバスケットボールの秀才でも、幾ら何でも知っている情報屋でも。
ズッコケるところは、ズッコケてくれる。