001
俺の名前は田中太郎。この世で最も平凡かつ特に意味のない名前であると自負している。
ジョニーとかマイクとかならまだ華やかさは残っているものの、太郎である。どうあがいても太郎は太郎のままでしかない。
大体田中という苗字の数も日本では佐藤や鈴木に続く多さを誇っており、田中と太郎が合体してまさにキングオブノーマルな名前が完成してしまったのだ。
今までの人生にだって特に華やかだった記憶はほとんどない。小学生の時、劇で名前が太郎であるがために桃太郎の役にさせられたことくらいだ。
今では皇天大学という普通の大学に愛車であるスクーターで通っている。
そして今日もスクーターを駐輪場に止め、九〇分間の講義を受けるために重い足取りで講義室へ向かっている最中に、その瞬間は訪れた。
登校する時間はいつもより若干早かった。
だが、それだけで人生がこうも一変するなんて誰も思いはしないだろう。早起きは三文の得と言うが、得をしたのか分からないし、三文とは一体いくらなのだろうか。
「……やはりトマトジュースだけだったらすぐに貧血になるわね。鉄分はサプリで補給できるけど、やっぱり何か物足りないわ」
それは誰も近づこうとしない駐輪場の裏にある小さな広場の自動販売機の方から聞こえた。
誰もいない……いや、一人だけそこにはいた。
いつもは近づきもしない場所だが、声が聞こえたのなら仕方ない。俺の好奇心は虫の光走性のようにそちらへ足を向かわせてしまう。
「病院に行けばいいかしら?……いや、それだったらいっそのこと採血所で済む話よね。どちらにしても変人扱いされるのは間違いないわ。でも天才は変人が多いって言うから大丈夫よね」
彼女は赤いトマトジュースを喉に流していく。ついでに薬瓶からサプリを取り出し、それを服用する。
病院、採血所……そこから導き出されるのは間違いない。
血だ。
しかし血液などどうするつもりだ?採血でもして輸血用の血液に役立てようとでもしているのか?
鉄分不足のくせに。
「赤い飲み物を飲めばその代用になると思ったけど、トマトジュースは所詮トマトジュース。味も似てなければ色も若干違うし、違うところだらけね。わたしも彼らとは違うから気が合うのかも?現にトマトジュース大好きだし」
誰と会話してるんだ?……なんだ、トマトジュースとか。
とにかくそろそろ講義へ向かわなければ。女の子の独り言をいつまでも聞いているほど俺には時間もない。そんな気持ち悪い趣味もない。
だが俺の足は止まる。いや、彼女の一言に足を止められてしまったのだ。
それは魔法の言葉という訳ではない。
彼女にとっては当然であった、とある独り言にすぎないのだから。
「 血液ってそういえばどんな味だったかしら?」