報告書―騎士団長より
はらりと机から一枚の色あせた紙が床に落ちる。
慌ててそれを拾って、彼はふと頬を緩ませた。
『私、王族直属第一騎士団長ライドより――魔王抹殺を目的とした旅についての報告をいたします』
神経質そうな堅苦しい書き方は、懐かしい。それはまさしく、十数年前彼が書いた、報告書の下書きだった。
まさか、こんなものまででてくるなんて。彼は懐かしさをかみしめ、整理中だった机を一瞥して堅いソファに腰を下ろした。
今より十数歳若かったころの話になる。
彼はふと、思いだす。
当時、彼は不敗と名高く王の護衛をたった一人で勤めていた。そんな彼が、魔王抹殺の依頼を受けた。それは無論王からのもので、彼は何も言わず従った。
異世界から呼び寄せられた勇者二人と、巫女に同行した。長いというには少し大げさだった旅で、彼は様々なことを学んだ。
くすりと笑って、彼ははっと立ち上がる。
「すまない、少し出てくる!」
リビングでなごんでいた妻に一言残し、彼は走り出す。
羞恥心に背を押される彼は今まさに、風になりたかった。
――あの人が読んでしまう前にどうにかしなければ。
報告書のもとになった日記を、彼は思い起こす。
不幸体質な彼のささやかな願いはやはり、叶うはずもない。
**
「あれ? ねえ父さん。これ何?」
古い書庫。アオバは、その色褪せた手帳を持ち首をかしげた。
『Diary』と見たこともない記号が題名だろうというのは予想がついたが、それが何をさすのか。アオバには分からない。
何という意味だろうと中身を見てみるが、書き方が古風なためか意味がよくわからない。
小さくため息をついたアオバの横に来た父親が、ああと言って小さく笑う。そしてすっとアオバの手から持ち上げたその手帳の一番最後のページを開き、指差した。
「知り合いの日記さ。……ほら、これは読めるだろう?」
「えっと……王族、直属、第一騎士団長?」
そうそうと頷き、父親はその場に腰を下ろす。そして、アオバにも同じように座らせた。
座ったアオバは放心したように無言だったが、すぐに叫んだ。
「ととと父さん、知り合いだったの!?」
「うん、知り合い。……中身気になる?」
上気した頬は林檎の様に赤く、父親を見つめる大きな目はきらきらと輝いていた。
父親の若いころに似たのかいつも冷静なアオバのそんな姿はめずらしい。息子の興奮した様子をほほえましそうに見つめ、父親は笑う。
「当たり前だろっ。俺、大きくなったら騎士になるんだから!」
――さて。
父親は笑ったまま思考をめぐらせた。
この大事な息子の夢を壊さないよう、どれを読むべきだろうか。
「それじゃあ、まず1枚目からね……」
父親はにこりと息子に笑いかけると、ぱらりとページをめくった。
**王族直属第一騎士団長の日記より、抜粋**
――一日目。
今日から日記をつけようと思う。……何を書けばいいのか分からない。
取り敢えず、今日は勇者様方にお会いした。
お一人は金の髪で、もうお一人は黒の髪。尚さまと飛砂さまとおっしゃるらしい。
正義感あふれる尚さまとは対照的に、飛砂さまは聡明でいらっしゃった。お二人ならば人々を救ってくださるかもしれない。しかし、黒は魔族の色だといわれている。少しだけ、不安を感じた。
――二日目。
つい激昂して勇者様に剣を抜いてしまった。
飛砂さまに何ということを言ってしまったのだろう。
不敗だなんだと言われていても、私は結局ただの子どもだったのかもしれない。
殺された友がいるから魔族が嫌いだというのは、ただの言い訳だった。しかし、そうは思ってもやはり魔族を好ましくは思えなかった。……不甲斐なく思う。
――三日目。
勇者様方を召還したという巫女〈リデア〉は、優秀だ。聞けば、勇者様方よりも幼い。落ち着いているから分からなかったというのは情けなかっただろうか?
しばらくは、王のおられるこの城で鍛錬をすることとなった。
そういえば、尚さまは剣を少しだけやっていたらしい。なかなか筋がよく、こちらも教えがいがあった。対して飛砂さまはどうやらこちらよりも巫女の様に術を使うほうが性に合うようだ。
――六日目。
昨日一昨日と城下町へ行ってきた。
魔物が現れたのでその殲滅だが――十六だというお二方には相当こたえたらしい。配慮が足りなかったようだ。
目の前で絶命している子どもを見て、唖然としていた。
勇者様方の住んでいた国というのはここと比べ平和だと聞いた。戦争がなく、衛生的だということも。しかし、自害するものは多いらしい。
はたして、それを平和と言ってもよいのだろうか?
――八日目。
しばらくは鍛錬を続けるだろうと思われる。
今日は飛砂さまが再び城下町へ行っていたらしい。何処へ行ったのか分からず、大変だった。次は一言言ってほしいとおもう。
先日魔物が現れた孤児院に行ったようだ。
なにやら両手を合わせ目をつぶっていた。あれは一体何の儀式だろう? 聞いてみたが、メイフク……死後の幸福を祈っているらしい。
死後に幸福があるとは――異世界と言うのはなかなか不可解だと思った。
――二十九日目。
今日で鍛錬は終了だった。
本来ならば何年、何十年とやるはずだが流石に何十年も待つことはできない。一応、やれるところまでやったはずだ。
森へと進みはじめたが、人里にはわんさかでてきた魔物の影がまったく見えない。緩衝をしてくれる魔女のおかげ……ということなのだろうか。私には分かりかねる。
――三十日目。
何かがおかしい。
動物は多く見たが、肉食動物と草食動物がともにいるというのは一体どういうことなのだろう。
この森は一体どうなっているんだ?
――三十二日目。
綺麗な泉を見つけた。
今までのどんな水よりも美しく美味しかった。
国民たちにも飲ませてやりたいと思った。
――三十六日目。
魔女と名乗る女に会った。森の奥の小屋に招待された。そこで出会った弟子の――柚木〈ゆのき〉殿は、今まで見たどんな女よりも愛くるしかった。
一瞬、時が止まったのかと思った。珍しく、尚さまや飛砂さまリデアでさえも唖然としていた。
だが、あの狐の仮面はいただけないと思う。大切なものだと言っていたがどうしたのだろうか。
どんなときでも、彼女の顔は無表情のままだった。――やはり、彼女にも彼女の事情というものがあるのだろうか?
――三十七日目。
魔女が、一匹の魔物に殺された。
最近力が弱まってきたと言うのは嘘ではないらしかった。目の前で師匠が殺されたというのに、柚木殿はやはり表情を変えなかった。一体何が彼女をそうさせたのだろう。
あと、彼女が魔女の死ぬ間際に言った「ヴォン ニュイ」というのはどういう意味なのだろうか?
――三十八日目。
今日は、魔女や柚木殿の使っていた小屋で少し休んだ。遺体は、気化してしまった。それが魔女のサダメなのだという。
そして、魔女の遺言により、柚木殿も旅に同行することになった。――世界を知ってほしいという魔女の言葉に彼女にも母性というものがあるのだろうと思った。
彼女の、柚木殿に対する対応は、母が子に対するようなものだった。それほどまでに大切だったのだろう。
――三十九日目。
柚木殿は、尚さまや飛砂さまと同じく異世界人、だったらしい。
「ヴォン ニュイ」というのは「Bonne nuit」と書き、この文字は異世界のものなのだという。
フランス……と言っただろうか? そこの国の言葉で、何故柚木殿が知っているのだと聞けば彼女も飛砂さまや尚さまと同じく異世界から来たのだといっていた。
知らぬ間に森に居て、そこを偶然通った魔女に拾われたという。
ある日突然森に一人になるというのはどれだけ耐えがたいものなのだろうかと思った。
――四十日目。
柚木殿は魔女ではなく「魔法使い」らしい。何処が違うのかは分からないが魔女と呼ぶなと言っていた。
相変わらず無表情だが、たまに空を見上げてぼうっとしていたりしていた。異世界が、恋しいのだろうか。
たまに、柚木殿はよくわからない発言をする。屁理屈の様な、それでいてどこか正しい発言だった。
しかし、「平和は存在していないようで存在する」というのは一体どういう意味なのだろうか。
――四十一日目。
柚木殿が言うには、あと二十日ほどで魔城だ。
そこで、私は不覚にも深手を負った。ああ死ぬのだろうと思った。
けれど、飛砂さまが――生きろといってくださった。何故だか、腫れものが落ちたような気分になった。
きょう、思い出したことがある。
はるか昔私がまだ幼かったころのことだ。小さいころに親を失くしていた私に優しくしてくれた孤児院の園長が、教えてくれた。
「他人を裏切ることも、自分を裏切ることも、とても酷いことだ」
自分の言葉を裏切るなと、あの人はおっしゃった。
私は、何のために今まで数多の命を犠牲にして生きていたのか忘れていたようだ。
――わたしは、人々に短い命で死んでほしくなくて。守りたくて、騎士になったのだ。
――四十二日目。
傷は、リデアと柚木殿によって少しずつ回復していった。
就寝前、飛砂さまが炎を見つめて何かを考えていた。
一体何なのだろうと考え――彼が本音を言ったことがないことを思い出す。
彼はいつも、嘘と事実しか言わない。思ったことは、決して言わないのだ。
いつか、彼にも本音の話せる方ができればいいのに。
――四十三日目。
尚さまは一体どうしたのだろう。最近は柚木殿を見ては発狂している。
それをリデアと飛砂さまが生温かい目で見ていたりしていた。
何か新しい病気なのだろうか? ……リデアに聞いてみたが、にこにこ笑ったままで結局教えてはくれなかった。
柚木殿はとくに気にしていないようなのでまあいいだろうとおもう。
――四十六日目。
漸く尚さまと柚木殿の接し方が普通になった。
しかし――柚木殿は狐の仮面をつけっぱなしにしている。邪魔ではないのだろうか?
尚さまと柚木殿の一件があってから、柚木殿とリデアはよく話すようだ。
――五十一日目。
漸く魔城が見えてきた。
まったくなんて遠いのだろうか。あと十日ほどで着くというか――少し心配だ。
今日は何故か飛砂さまの行動が可笑しかった。
――五十四日目。
飛砂さまの体調も無事元に戻り、城もあと少しというところだ。
案外進みが早いらしい。しかし――あと七日もいるのだろうか?
――五十五日目。
リデアが通信で王からの情報を受け取ったらしい。
魔王は――異世界人と言う。尚さまと、飛砂さまと、そして柚木殿。
この三人の中に魔王がいるというのだろうか――? 一番怪しいのは柚木殿だが、魔王と言うには些か説得力に欠ける。
――五十六日目。
柚木殿による相変わらずの口八兆で、魔王云々は保留にされた。
確かに、このままではどうにもならないだろう。――年長者たる私が何もしないなど、少々情けがない。精進が足りないのだろうか。
なんだか、少しずつ魔物の力が強くなってきている気がする。
――五十九日目。
あと少しで、魔城に入る。
柚木殿の「二十日」とは、魔城のてっぺんまでのことを指していたのだろうか? よくわからない。
漸く聞けた。
柚木殿の情報網は、「自然」らしい。魔女も言っていたが、森は魔女の領土だ。だからこそ分かるらしい。
すこし非現実的だが――そういうこともあるのだろう。
――六十三日目。
ああ、ようやく終わった。長い、旅立った。
魔王は、四十ほどの男だった。やたら強かったが――いや、これは私の心にだけ留めておこう。
あれだけ長かった道のりだが――帰りは案外楽だった。魔物が現れなかったのが理由なのか、遠回りをしていたのが理由なのかは分からない。恐らく後者だ。
明日、尚さまと柚木殿は異世界に帰るらしい。飛砂さまはやはりこの世界に残るのだという。王も、この件に関しては賛成している。
ああ、もうおわかれなのか。
お会いできて、光栄だった。色んな事を学んだ。色んな事を、考えさせられた。
私はやはり、騎士として、この職に誇りを持ちながら生きようとおもう。
後悔はしてもいいけれど恨んではならない。汚点から目をそらしてはならない。
色んな事を、教えてくださった。とても、感謝している。
――六十四日目。
この出来事は、絵本に乗せられるらしい。
下書きを見せてはもらったけれど、やはり嘘だらけだった。
けれどこれもまた、ひとつの事実なのかもしれない。
魔王は悪だ。
勇者は強い。
私たち人族は、固定観念を捨てなければいけないのかもしれない。
自分で考え、自分で真実を作ることができれば――どれだけいいのだろう。
魔王は私たちにとって悪だが、魔王にとっては正義だった。勇者は強いけれど、初めから何でもできるわけではない。
魔法使いだって強いし、騎士だって情けないこともある。巫女が、過ちを犯すこともある。
私たちは、もう少し、考えなければいけないのかもしれない。
****
「――以上」
ふうと一息ついた父親は、まだ少し笑っていた。
アオバはそれに気づかず、未だ興奮の冷めない顔で熱心にその日記をみつめた。
「騎士様かあ。やっぱり、格好良いなあ! って……勇者さまの名前、父さんと一緒じゃん。なんで?」
「さあ……なんでと言われてもね」
見上げられて首をかしげる父親は、何を考えているのか分からない顔で答える。そして、ふと日記を振って息子に笑いかけた。
「これ、早くしないと無くなっちゃうかもよ?」
「ええっ。なんでー!?」
くすくすと愉快そうに笑い、父親はなんでもと答える。悪びれもしない様子はアオバの反感をかってしまうことくらいお見通しだろう。それでも父親は笑ったままだった。
「ちょっと、なんでだよおっ」
「もうすこし大きくなったら、また読ましてもらおうな。今度は……そう、許可をとってね」
目を細め、父親は笑う。
そして、ばたばたと騒がしい足音が聞こえたことに、また笑った。
「っヒサ様!!」
低い、良く通る声を耳にした父親はついに腹を抱えて笑いだし、そして息子の頭を撫でるのだった。
「ほら、元・王族直属第一騎士団長のライドさんのご登場だよ」
言った父親に、息子は豆鉄砲を食らったような顔で茫然とするのだった。
息子の幼馴染の父親が騎士団長だったということに絶叫するまでたっぷり十六秒。そして、息子自身の父親が勇者の「飛砂」だったということに絶叫するまでたっぷり八十秒。父親が怒られるのを見るまであと――