春の隣。
「団長ー!」
聞き慣れた声に、男は手に持っていた書類から顔を上げた。
廊下の向こうから、小走りでやって来る少女
――いや、もう少女と呼ぶには失礼かもしれない。
十八歳。
春に入団したばかりの事務方の新人。
学園も卒業済の立派な社会人だ。
それでも男の目には、どうしても幼く映ってしまう。
「走るな」
「だって団長を見つけたんですもん」
「見つけたから走る理由にはならん」
「スミマセン」
にこりと笑う。
男は思わず目を逸らした。
その笑顔に弱いことを、自分だけが知っている。
「何か用か」
「用がないと来ちゃ駄目ですか?」
「……そういうことを言うな」
「?」
本人は分かっていない。
分かっていたら、そんな顔で見上げてこないだろう。
男は途端に、なんだか落ち着かない気持ちになる。
男――騎士団長ウェイドは小さく息を吐いた。
姪と同じ年頃だ。
そう何度も自分に言い聞かせる。
姪が同じことをしたら微笑ましいだけだ。
なのに。
なぜこの娘が相手だと、こんなにも落ち着かないのか。
⸻
「団長、疲れてます?」
「別に」
「疲れてますね」
「なぜ分かる」
「眉間です」
そう言って彼女は自分の眉間を指差した。
「ここ、ぎゅーってなってます」
「……そうか」
「はい」
彼女はうんうんと頷く。
そして机の上に小さな包みを置いた。
「なんだ」
「焼き菓子です」
「誰のだ」
「私のですけど、お疲れ模様の団長にあげます」
「いや、誰が作った」
「私です」
ウェイドは固まった。
彼女は満面の笑みだった。
嫌な予感しかしない。
⸻
十分後。
ウェイドは黙って紅茶を飲んでいた。
甘い。
ものすごく甘い。
だが不味くはない。
不味くはないが甘い。
「どうですか?」
期待に満ちた瞳。
ウェイドはしばらく沈黙した。
「……頑張ったな」
「褒めてないですよね?」
「褒めている」
「本当ですか?」
「本当だ」
嘘ではない。
実際、頑張ったのは分かる。
形は少々いびつだったが。
砂糖は少々多かったが。
少々。
たぶん少々。
きっと少々だ。
「次はもう少し砂糖を減らせ」
「やっぱり!
疲れた時に食べる用に、と思って甘めに作ったんです。
けど、砂糖を入れすぎちゃいました!」
彼女が笑った。
その瞬間。
ウェイドも少しだけ笑ってしまった。
⸻
それを見ていた副団長は後で頭を抱えた。
「団長」
「なんだ」
「今、自分が笑ったことに気付いてます?」
「……何が言いたい」
「いや別に」
副団長は空を見た。
これは重症だ。
本人だけが気付いていない。
⸻
ある日の午後。
訓練を終え、中庭のベンチで休憩していたウェイドは、ふと聞き慣れた声に顔を上げた。
彼女がいた。
同期の青年と話している。
楽しそうに。
笑いながら。
青年もまた笑っていた。
年齢の近い男女。
自然な距離感。
自然な会話。
自然な光景。
――仕事や環境にも慣れ、楽しそうにしている。
誰にでも見せる笑顔は、咲きたての花みたいだ。
新緑のような快活さは、皆に元気を与える。
彼女がそこに居るだけで、人や場を明るくする。
まるで、春のようなひと。
そんな彼女は、周りに壁をつくらない。
大きな体格に厳つい顔をした者が多い騎士たちは、あまり女性に好まれない。
そんな騎士団で、彼女のような存在はとても貴重だ。
だから、彼女はすぐ人気者になった。
年嵩の騎士たちには娘や孫のように可愛がられ、歳が近い騎士たちには熱のこもった視線を向けられている。
それでいい。
それでいいはずだ。何も問題はないはずだ。
なのに。
なぜだ。
なぜ胸が重い。
彼女が笑っている。
本来なら喜ばしいことだ。
なのに。
なぜ自分はこんなに落ち着かない。
「……団長?」
通りがかった副団長がぎょっとした。
「なんです、その顔」
「顔?」
「今にも誰かを斬りそうな顔です」
「そんな顔はしていない」
「してます」
していた。
本人だけが気付いていなかった。
⸻
その夜。
執務室で一人になったウェイドは額を押さえた。
あの休憩時間から、同じ場面が何度も何度も頭の中で繰り返される。
若い男と話していただけだ。
それだけだ。
それなのに。
思い出すのは、彼女の楽しそうな横顔。
笑顔。
明るい響きを持った声。
青年との距離。
そして。
気付いてしまう。
気付きたくなかったことに。
「……馬鹿だな」
呟きは誰にも届かない。
年甲斐もなく。
若い娘に心を乱されている。
何をしている。
何を考えている。
自分は。
⸻
数日後。
突然の雨だった。
訓練帰りの団員たちが慌てて建物へ駆け込む。
ウェイドも、外部での会議を終え戻ってきたところで雨に降られた。
書類を抱えて屋根付きの通路に入る。
その時。
「団長!」
振り返ると、彼女だった。
雨に濡れている。
髪から雫が落ちている。
「何をしている」
「団長こそ!」
彼女は駆け寄ってきて懐からハンカチを出すと、ウェイドの顔を拭った。
「濡れてます!風邪ひきますよ!」
「お前の方が濡れているだろう」
「私は若いので平気です!」
「意味が分からん」
「えへへ」
そう言って、笑う。
また笑う。
ウェイドは困ったように目を細めた。
本当に。
困る。
こんな風に無邪気な笑顔を向けられると。
特別扱いされると。
期待してしまいそうになる。
⸻
「団長」
「なんだ」
「私、騎士団に入れて良かったです」
「そうか」
「最初は不安だったんです」
彼女は少しだけ照れたように笑った。
「でも」
そこで言葉を切る。
そして真っ直ぐ見上げてきた。
「団長が居たから頑張れました」
ウェイドは息を止めた。
やめてくれ。
そういう顔で。
そういう声で。
そういうことを言うな。
勘違いしてしまう。
本当に。
勘違いしてしまうから。
⸻
その夜。
眠れなかった。
窓の外では雨が降っている。
静かな夜だった。
ウェイドは椅子に座り、ぼんやりと外を眺めていた。
彼女の笑顔が浮かぶ。
声が浮かぶ。
仕草が浮かぶ。
何度追い払っても浮かぶ。
そして。
ようやく認める。
認めてしまう。
「……そうか」
苦く笑った。
なるほど。
どうりで落ち着かないわけだ。
どうりで目で追うわけだ。
どうりで。
笑顔ひとつで嬉しくなるわけだ。
「好きなのか」
口にした瞬間。
胸が痛かった。
嬉しいわけでもない。
浮かれるわけでもない。
ただ。
困った。
ひどく困った。
彼女は十八歳。
自分は三十代半ば。
彼女の父親の方が近い年齢かもしれない。
周囲は何と言うだろう。
彼女はいつか後悔しないだろうか。
十年後。
二十年後。
もっと若くて相応しい男に出会うのではないか。
そんな考えが次々に浮かぶ。
だが。
それでも。
どうしても。
一つだけ消えない願いがあった。
ウェイドは静かに目を閉じた。
もし。
もし許されるなら。
同じ年頃に生まれていたら。
胸を張って隣を歩けたのだろうか。
雨音だけが静かに響いていた。
けれどその夜。
騎士団長ウェイドは初めて知った。
自分がもう、とっくに手遅れなほど恋に落ちていることを。
⸻
恋を自覚してからというもの。
ウェイドの悩みは増えた。
主に。
彼女のせいで。
「団長!」
朝。
呼ばれる。
「団長!」
昼。
呼ばれる。
「団長ー!」
夕方。
呼ばれる。
「……」
「どうしました?」
「いや」
「?」
「なんでもない」
なんでもなくない。
全然なんでもない。
呼ばれるたびに嬉しくなる自分が腹立たしいだけだ。
⸻
最近。
彼女はよく俺の執務室へ来る。
理由は様々だ。
訓練の相談だったり、資料の貸し借り。
焼き菓子の試食だったり、世間話。
どうでもいい報告。
本当にどうでもいい報告。
休憩時間に俺が執務室にいることが分かると、毎回のように現れる。
「団長聞いてください!」
「なんだ」
「今日、猫を撫でました!」
「そうか」
「ふわふわでした!」
「そうか」
君の髪もふわふわで撫でてみたくなる。
「可愛かったです!」
「そうか」
可愛いのは君の方だ。
「団長、興味ないですね!?」
「ある」
「嘘です!」
ついつい心の中で彼女へ、直接言葉に出来ない返事をしてしまう自分がいる。
本当は彼女に伝えたい。だが、こんなオジサンにそんな事言われても気持ちが悪いだけだろう。
だから言わない。言えない。
内心は忙しいが、そんなことを感じさせないくらいゆるい、そんな会話をしている時間が。
実は嫌いじゃない。
むしろ。
かなり好きだ。
かなり。
かなり。
困るくらいに。
⸻
ある日。
彼女は執務室のソファに座り資料をまとめていた。
就業時間は終わっていたが、切りのいいところまで、と彼女は作業を続けていた。
静かな夕方だった。
ウェイドは書類を片付けている。
彼女は資料を読む。
それだけ。
それだけなのに。
妙に落ち着く。
ふと。
紙をめくる音が止まった。
顔を上げる。
彼女が眠っていた。
「……」
ウェイドは固まった。
起こすべきか。
いや。
疲れているのかもしれない。
本来は時間外だ、いいだろう。
少しだけなら。
少しだけなら。
そう思った十分後。
彼女の頭がこくりと傾いた。
「危ない」
そろそろ声を掛けようかと、ソファのそばに近づいた俺の思わず手が伸びる。
肩を支えた、その瞬間。
彼女はうっすら目を開けた。
「……団長?」
「すまん。起こしたか」
「んー……」
眠そうに目を擦る。
小動物か。かわいい。
いや違う。
小動物じゃない。
成人女性だ。
ちゃんと認識しろ。
「団長」
「なんだ」
「お仕事終わりました?」
「まだだ」
「頑張ってください」
にこっ。
その笑顔を見た瞬間。
ウェイドは本気で天井を見上げたくなった。
なんなんだ。
なんなんだこの娘は。
⸻
副団長は知っていた。
団長が執務室で一人になる時間を、減らしていることを。
いや、減らされているのを受け入れていることを。
「団長」
「なんだ」
「幸せそうですね」
「何を言っている」
「いえ別に」
副団長は遠い目をした。
気づいているのか、いないのか。
とにもかくにも、重症である。
⸻
そして春が過ぎ。
初夏が訪れる。
その日。
訓練場に来ていた彼女が転んだ。
大した怪我ではない。
手のひらを擦りむいただけだ。
本当に。
大したことはない。
なのに。
ウェイドは真っ青になった。
「見せろ」
「え?」
「手だ」
「いや大丈夫です」
「見せろ」
有無を言わせぬ声。
彼女はびっくりしながら手を差し出した。
「団長?」
「……」
「怒ってます?」
「怒っていない」
怒っている。
自分に。
たかが擦り傷。
それなのに。
胸がざわついた。
嫌だった。
彼女が傷付くのが。
想像以上に。
「団長って心配性ですね」
彼女は笑った。
ウェイドは返事ができなかった。
その日の帰り道。夕焼けが綺麗だった。
一緒に執務室を出て、隣を歩いていた彼女が言う。
「団長」
「なんだ」
「私、昔は騎士団長って怖い人だと思ってました」
「そうか」
「今は違います」
ウェイドは嫌な予感がした。
「優しい人です」
やめてくれ。
本当に。
やめてくれ。
「団長?」
「……」
「どうしたんですか?」
「なんでもない」
違う。
なんでもなくない。
そんな顔で言われたら。
そんな真っ直ぐな瞳で言われたら。
期待してしまう。
その夜だった。
ウェイドは珍しく姪から手紙を受け取った。
近況報告がびっしり書いてある。
最後に。
こう書かれていた。
『叔父様もそろそろ恋人を作ったらどうですか?』
ウェイドは頭を抱えた。
『好きな人がいるなら大事にしてください』
思わず天井を仰ぐ。
好きな人。
いる。
間違いなくいる。
だが。
「……無理だろう」
呟く。
彼女は若い。
未来がある。
眩しいほどに。
だから。
この気持ちは。
胸の奥にしまっておくべきだ。
そう思った。
そう。
思ったのだ。
数日後までは。
⸻
「団長」
夕暮れだった。
執務室に入ってきた珍彼女の表情が、珍しく硬い。
「相談があります」
ウェイドは頷いた。
「実は」
彼女は少し迷ったあと、言った。
「同期の方からお付き合いを申し込まれました」
世界が止まった。
ウェイドは表情を変えなかった。
変えられなかった。
「そうか」
それだけ。
それだけしか言えなかった。
彼女は俯く。
「良い人なんです」
知っている。
あの時楽しそうにしていた、あいつだ。
あいつは誰に対しても態度を変えたりしないし、爽やかだし、仕事も出来る。
「歳も近くて」
知っている。彼女とあいつは三歳差だ。
「優しい人で」
知っている。困っている人には誰より先に声を掛けていると評判だ。
だから。
付き合うなら、あいつみたいな奴がいい。
その方が彼女も幸せになれるだろう。
その方が、いいんだ。
「でも」
彼女が顔を上げた。
俺の目をまっすぐに見ながら彼女は続ける。
「私、好きな人がいるんです」
心臓が止まりそうになった。
「その人のことばかり考えてしまって」
やめろ。
「その人が笑うと嬉しくて」
やめてくれ。
「その人が無理してると心配で」
頼むから。
「だから断ろうと思うんです」
沈黙。
涙の膜が張ったきれいな瞳で。
形のいい眉を下げ、彼女は少しだけ笑った。
「その人には全然伝わってないんですけどね」
ウェイドは目を閉じた。
駄目だ。
これ以上は。
本当に。
駄目だ。
「……団長」
名前を呼ばれる。
いつもの声。
いつもの優しい声。
ウェイドはゆっくり目を開けた。
そして。
初めて、逃げるのをやめた。
「ディオナ」
彼女が息を呑む。
「一つだけ聞く」
声が掠れた。
「その相手は」
こんなにも。
怖かったことはない。
「俺か」
長い沈黙。
それから。
彼女は泣きそうな顔で笑った。
「はい」
ウェイドは思った。
ああ。
無理だ。
理性も。
覚悟も。
諦めも。
全部。
俺を押さえつけるものは、俺のちっぽけな弱気な考えは、彼女には勝てない。
歳の差も、世間体も、彼女が向けてくれる気持ちと笑顔の前では何の枷にもならない。
その位俺は、彼女に対する自分の気持ちを育ててきたんだな。
ウェイドはゆっくりと笑った。
何年ぶりか分からないほど穏やかに。
「困ったな」
「何がですか?」
「俺もだ」
夕暮れの光が差し込む。
彼女が目を見開く。
そして、ほんの少しして。
ぽろりと涙をこぼした。
ウェイドは苦笑した。
本当に。
敵わない。
十八歳の頃の自分が見たら笑うだろう。
それでも。
同じ年頃で生まれなくてよかった。
今ならそう思える。
今だからこその出会いで、今だからこそのこの気持ちなのだから。
こうして俺は 、春の隣を歩いていくことにした。




