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春の隣。

作者: 練色。
掲載日:2026/06/17


「団長ー!」


聞き慣れた声に、男は手に持っていた書類から顔を上げた。

廊下の向こうから、小走りでやって来る少女

――いや、もう少女と呼ぶには失礼かもしれない。

十八歳。

春に入団したばかりの事務方の新人。

学園も卒業済の立派な社会人だ。


それでも男の目には、どうしても幼く映ってしまう。


「走るな」

「だって団長を見つけたんですもん」

「見つけたから走る理由にはならん」

「スミマセン」


にこりと笑う。

男は思わず目を逸らした。

その笑顔に弱いことを、自分だけが知っている。


「何か用か」

「用がないと来ちゃ駄目ですか?」

「……そういうことを言うな」

「?」


本人は分かっていない。

分かっていたら、そんな顔で見上げてこないだろう。

男は途端に、なんだか落ち着かない気持ちになる。


男――騎士団長ウェイドは小さく息を吐いた。


姪と同じ年頃だ。

そう何度も自分に言い聞かせる。

姪が同じことをしたら微笑ましいだけだ。

なのに。

なぜこの娘が相手だと、こんなにも落ち着かないのか。



「団長、疲れてます?」

「別に」

「疲れてますね」

「なぜ分かる」

「眉間です」


そう言って彼女は自分の眉間を指差した。


「ここ、ぎゅーってなってます」

「……そうか」

「はい」


彼女はうんうんと頷く。

そして机の上に小さな包みを置いた。


「なんだ」

「焼き菓子です」

「誰のだ」

「私のですけど、お疲れ模様の団長にあげます」

「いや、誰が作った」

「私です」


ウェイドは固まった。

彼女は満面の笑みだった。

嫌な予感しかしない。



十分後。

ウェイドは黙って紅茶を飲んでいた。

甘い。

ものすごく甘い。

だが不味くはない。

不味くはないが甘い。


「どうですか?」


期待に満ちた瞳。

ウェイドはしばらく沈黙した。


「……頑張ったな」

「褒めてないですよね?」

「褒めている」

「本当ですか?」

「本当だ」


嘘ではない。

実際、頑張ったのは分かる。

形は少々いびつだったが。

砂糖は少々多かったが。

少々。

たぶん少々。

きっと少々だ。


「次はもう少し砂糖を減らせ」

「やっぱり!

 疲れた時に食べる用に、と思って甘めに作ったんです。

 けど、砂糖を入れすぎちゃいました!」


彼女が笑った。

その瞬間。

ウェイドも少しだけ笑ってしまった。



それを見ていた副団長は後で頭を抱えた。


「団長」

「なんだ」

「今、自分が笑ったことに気付いてます?」

「……何が言いたい」

「いや別に」


副団長は空を見た。

これは重症だ。

本人だけが気付いていない。



ある日の午後。

訓練を終え、中庭のベンチで休憩していたウェイドは、ふと聞き慣れた声に顔を上げた。

彼女がいた。

同期の青年と話している。

楽しそうに。

笑いながら。

青年もまた笑っていた。

年齢の近い男女。

自然な距離感。

自然な会話。

自然な光景。


――仕事や環境にも慣れ、楽しそうにしている。


誰にでも見せる笑顔は、咲きたての花みたいだ。

新緑のような快活さは、皆に元気を与える。

彼女がそこに居るだけで、人や場を明るくする。

まるで、春のようなひと。


そんな彼女は、周りに壁をつくらない。

大きな体格に厳つい顔をした者が多い騎士たちは、あまり女性に好まれない。

そんな騎士団で、彼女のような存在はとても貴重だ。

だから、彼女はすぐ人気者になった。

年嵩の騎士たちには娘や孫のように可愛がられ、歳が近い騎士たちには熱のこもった視線を向けられている。


それでいい。

それでいいはずだ。何も問題はないはずだ。

なのに。


なぜだ。

なぜ胸が重い。

彼女が笑っている。

本来なら喜ばしいことだ。

なのに。

なぜ自分はこんなに落ち着かない。


「……団長?」


通りがかった副団長がぎょっとした。


「なんです、その顔」

「顔?」

「今にも誰かを斬りそうな顔です」

「そんな顔はしていない」

「してます」


していた。

本人だけが気付いていなかった。



その夜。

執務室で一人になったウェイドは額を押さえた。

あの休憩時間から、同じ場面が何度も何度も頭の中で繰り返される。


若い男と話していただけだ。

それだけだ。

それなのに。

思い出すのは、彼女の楽しそうな横顔。

笑顔。

明るい響きを持った声。

青年との距離。

そして。

気付いてしまう。

気付きたくなかったことに。


「……馬鹿だな」


呟きは誰にも届かない。

年甲斐もなく。

若い娘に心を乱されている。

何をしている。

何を考えている。

自分は。



数日後。

突然の雨だった。

訓練帰りの団員たちが慌てて建物へ駆け込む。

ウェイドも、外部での会議を終え戻ってきたところで雨に降られた。

書類を抱えて屋根付きの通路に入る。

その時。


「団長!」


振り返ると、彼女だった。

雨に濡れている。

髪から雫が落ちている。


「何をしている」

「団長こそ!」


彼女は駆け寄ってきて懐からハンカチを出すと、ウェイドの顔を拭った。


「濡れてます!風邪ひきますよ!」

「お前の方が濡れているだろう」

「私は若いので平気です!」

「意味が分からん」

「えへへ」


そう言って、笑う。

また笑う。

ウェイドは困ったように目を細めた。

本当に。

困る。


こんな風に無邪気な笑顔を向けられると。

特別扱いされると。


期待してしまいそうになる。



「団長」

「なんだ」

「私、騎士団に入れて良かったです」

「そうか」

「最初は不安だったんです」


彼女は少しだけ照れたように笑った。


「でも」


そこで言葉を切る。

そして真っ直ぐ見上げてきた。


「団長が居たから頑張れました」


ウェイドは息を止めた。

やめてくれ。

そういう顔で。

そういう声で。

そういうことを言うな。

勘違いしてしまう。

本当に。

勘違いしてしまうから。



その夜。

眠れなかった。

窓の外では雨が降っている。

静かな夜だった。

ウェイドは椅子に座り、ぼんやりと外を眺めていた。

彼女の笑顔が浮かぶ。

声が浮かぶ。

仕草が浮かぶ。

何度追い払っても浮かぶ。

そして。

ようやく認める。

認めてしまう。


「……そうか」


苦く笑った。

なるほど。

どうりで落ち着かないわけだ。

どうりで目で追うわけだ。

どうりで。

笑顔ひとつで嬉しくなるわけだ。


「好きなのか」


口にした瞬間。

胸が痛かった。

嬉しいわけでもない。

浮かれるわけでもない。

ただ。

困った。

ひどく困った。

彼女は十八歳。

自分は三十代半ば。

彼女の父親の方が近い年齢かもしれない。

周囲は何と言うだろう。

彼女はいつか後悔しないだろうか。

十年後。

二十年後。

もっと若くて相応しい男に出会うのではないか。

そんな考えが次々に浮かぶ。

だが。

それでも。

どうしても。

一つだけ消えない願いがあった。

ウェイドは静かに目を閉じた。



もし。

もし許されるなら。


同じ年頃に生まれていたら。

胸を張って隣を歩けたのだろうか。



雨音だけが静かに響いていた。

けれどその夜。

騎士団長ウェイドは初めて知った。

自分がもう、とっくに手遅れなほど恋に落ちていることを。



恋を自覚してからというもの。

ウェイドの悩みは増えた。

主に。

彼女のせいで。


「団長!」

朝。

呼ばれる。


「団長!」

昼。

呼ばれる。


「団長ー!」

夕方。

呼ばれる。


「……」

「どうしました?」

「いや」

「?」

「なんでもない」


なんでもなくない。

全然なんでもない。

呼ばれるたびに嬉しくなる自分が腹立たしいだけだ。



最近。

彼女はよく俺の執務室へ来る。

理由は様々だ。

訓練の相談だったり、資料の貸し借り。

焼き菓子の試食だったり、世間話。

どうでもいい報告。

本当にどうでもいい報告。

休憩時間に俺が執務室にいることが分かると、毎回のように現れる。


「団長聞いてください!」

「なんだ」

「今日、猫を撫でました!」

「そうか」

「ふわふわでした!」

「そうか」


君の髪もふわふわで撫でてみたくなる。


「可愛かったです!」

「そうか」


可愛いのは君の方だ。


「団長、興味ないですね!?」

「ある」

「嘘です!」


ついつい心の中で彼女へ、直接言葉に出来ない返事をしてしまう自分がいる。

本当は彼女に伝えたい。だが、こんなオジサンにそんな事言われても気持ちが悪いだけだろう。

だから言わない。言えない。


内心は忙しいが、そんなことを感じさせないくらいゆるい、そんな会話をしている時間が。

実は嫌いじゃない。

むしろ。

かなり好きだ。

かなり。

かなり。

困るくらいに。



ある日。

彼女は執務室のソファに座り資料をまとめていた。

就業時間は終わっていたが、切りのいいところまで、と彼女は作業を続けていた。

静かな夕方だった。

ウェイドは書類を片付けている。

彼女は資料を読む。

それだけ。

それだけなのに。

妙に落ち着く。


ふと。

紙をめくる音が止まった。

顔を上げる。

彼女が眠っていた。


「……」

ウェイドは固まった。

起こすべきか。

いや。

疲れているのかもしれない。

本来は時間外だ、いいだろう。

少しだけなら。

少しだけなら。


そう思った十分後。

彼女の頭がこくりと傾いた。


「危ない」


そろそろ声を掛けようかと、ソファのそばに近づいた俺の思わず手が伸びる。

肩を支えた、その瞬間。

彼女はうっすら目を開けた。


「……団長?」

「すまん。起こしたか」

「んー……」


眠そうに目を擦る。

小動物か。かわいい。

いや違う。

小動物じゃない。

成人女性だ。

ちゃんと認識しろ。


「団長」

「なんだ」

「お仕事終わりました?」

「まだだ」

「頑張ってください」

 にこっ。


その笑顔を見た瞬間。

ウェイドは本気で天井を見上げたくなった。

なんなんだ。

なんなんだこの娘は。



副団長は知っていた。

団長が執務室で一人になる時間を、減らしていることを。

いや、減らされているのを受け入れていることを。


「団長」

「なんだ」

「幸せそうですね」

「何を言っている」

「いえ別に」


副団長は遠い目をした。

気づいているのか、いないのか。

とにもかくにも、重症である。



そして春が過ぎ。

初夏が訪れる。


その日。

訓練場に来ていた彼女が転んだ。

大した怪我ではない。

手のひらを擦りむいただけだ。

本当に。

大したことはない。


なのに。

ウェイドは真っ青になった。


「見せろ」

「え?」

「手だ」

「いや大丈夫です」

「見せろ」


有無を言わせぬ声。

彼女はびっくりしながら手を差し出した。


「団長?」

「……」

「怒ってます?」

「怒っていない」


怒っている。

自分に。


たかが擦り傷。

それなのに。

胸がざわついた。

嫌だった。

彼女が傷付くのが。

想像以上に。


「団長って心配性ですね」

彼女は笑った。

ウェイドは返事ができなかった。



その日の帰り道。夕焼けが綺麗だった。

一緒に執務室を出て、隣を歩いていた彼女が言う。


「団長」

「なんだ」

「私、昔は騎士団長って怖い人だと思ってました」

「そうか」

「今は違います」


ウェイドは嫌な予感がした。


「優しい人です」


やめてくれ。

本当に。

やめてくれ。


「団長?」

「……」

「どうしたんですか?」

「なんでもない」


違う。

なんでもなくない。

そんな顔で言われたら。

そんな真っ直ぐな瞳で言われたら。


期待してしまう。


その夜だった。


ウェイドは珍しく姪から手紙を受け取った。

近況報告がびっしり書いてある。

最後に。

こう書かれていた。


『叔父様もそろそろ恋人を作ったらどうですか?』


ウェイドは頭を抱えた。


『好きな人がいるなら大事にしてください』


思わず天井を仰ぐ。


好きな人。

いる。

間違いなくいる。


だが。


「……無理だろう」


呟く。

彼女は若い。

未来がある。

眩しいほどに。


だから。

この気持ちは。

胸の奥にしまっておくべきだ。

そう思った。


そう。

思ったのだ。


数日後までは。



「団長」


夕暮れだった。

執務室に入ってきた珍彼女の表情が、珍しく硬い。


「相談があります」


ウェイドは頷いた。


「実は」


彼女は少し迷ったあと、言った。


「同期の方からお付き合いを申し込まれました」


世界が止まった。


ウェイドは表情を変えなかった。

変えられなかった。


「そうか」


それだけ。

それだけしか言えなかった。


彼女は俯く。


「良い人なんです」


知っている。

あの時楽しそうにしていた、あいつだ。

あいつは誰に対しても態度を変えたりしないし、爽やかだし、仕事も出来る。


「歳も近くて」


知っている。彼女とあいつは三歳差だ。


「優しい人で」


知っている。困っている人には誰より先に声を掛けていると評判だ。


だから。

付き合うなら、あいつみたいな奴がいい。

その方が彼女も幸せになれるだろう。

その方が、いいんだ。



「でも」


彼女が顔を上げた。

俺の目をまっすぐに見ながら彼女は続ける。


「私、好きな人がいるんです」


心臓が止まりそうになった。


「その人のことばかり考えてしまって」


やめろ。


「その人が笑うと嬉しくて」


やめてくれ。


「その人が無理してると心配で」


頼むから。


「だから断ろうと思うんです」


沈黙。


涙の膜が張ったきれいな瞳で。

形のいい眉を下げ、彼女は少しだけ笑った。


「その人には全然伝わってないんですけどね」


ウェイドは目を閉じた。


駄目だ。

これ以上は。


本当に。


駄目だ。


「……団長」


名前を呼ばれる。


いつもの声。

いつもの優しい声。


ウェイドはゆっくり目を開けた。


そして。

初めて、逃げるのをやめた。


「ディオナ」


彼女が息を呑む。


「一つだけ聞く」


声が掠れた。


「その相手は」


こんなにも。

怖かったことはない。


「俺か」


長い沈黙。


それから。


彼女は泣きそうな顔で笑った。


「はい」


ウェイドは思った。


ああ。

無理だ。


理性も。

覚悟も。

諦めも。

全部。


俺を押さえつけるものは、俺のちっぽけな弱気な考えは、彼女には勝てない。

歳の差も、世間体も、彼女が向けてくれる気持ちと笑顔の前では何の枷にもならない。

その位俺は、彼女に対する自分の気持ちを育ててきたんだな。


ウェイドはゆっくりと笑った。

何年ぶりか分からないほど穏やかに。


「困ったな」


「何がですか?」


「俺もだ」


夕暮れの光が差し込む。


彼女が目を見開く。

そして、ほんの少しして。


ぽろりと涙をこぼした。


ウェイドは苦笑した。


本当に。

敵わない。

十八歳の頃の自分が見たら笑うだろう。


それでも。

同じ年頃で生まれなくてよかった。


今ならそう思える。

今だからこその出会いで、今だからこそのこの気持ちなのだから。


こうして俺は 、春の隣を歩いていくことにした。




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