親孝行などら息子
「ねえ。明日一緒にカフェでお茶しようよ」
金曜日の夜、志保さんはコンビニ袋を差し出しながらそう言った。僕はしばらく硬直した後、飛び跳ねたい欲を我慢してぎこちなく頷く。緑の制服を身に纏う志保さんは、相も変わらず死んだ魚のような目をしている。でも今日は、慣れないことをしている自覚があるのか、少し照れているように見えた。
日比谷志保さんは会社帰りにいつも寄るコンビニのアルバイト店員だ。僕らは最初、新人店員と常連客の関係だった。それが今では一緒に食事に行くほどの間柄になっている。きっかけは数週間前に起きた、ある事件に遡る。
その日、志保さんはコンビニの駐車場でたむろしていた若者の違法薬物使用を見事に見破った。怖いもの知らずな性格は格好良い。けれど、その時の志保さんは激高した若者に詰め寄られていて、偶然通りかかった僕が警察に通報したことでことなきを得た。
僕は電話をしただけ。だけどそれ以来、志保さんから話しかけてくれるようになった。密かに恋心を抱いていた身としてはまさに棚から牡丹餅で、僕はこの機会を逃すまいと、積極的に食事や映画に誘った。
ただ、志保さんの感情を読み取ることは、初めての競馬で三連単を当てるよりも難しい。カフェに誘われただけで有頂天になったのは、関係性にまつわる不安がその一瞬で消し飛んだからでもあった。
翌日、一張羅を着込んだ僕は、最寄り駅の改札前に立っていた。時刻は午後一時過ぎ。志保さんは深夜まで働いているため、集合はこの時間になることが多い。数分待って、白のシャツと茶のズボンに身をくるみ、薄橙のポシェットを肩にかけた志保さんが現れた。
僕はこれともう一つ別の着こなししか見たことがない。そのちょっとズボラなところがまた魅力的だ。志保さんに手を振ると、昨日と同じ抑揚のない声が僕の鼓膜を揺さぶった。
「待たせちゃった?」
「全然。来たばかり」
「その汗で?」
「五分くらいだよ」
志保さんから追及を受けて、僕はすぐさま言い分を変える。眠そうな目をしているけれど、その観察眼はどんな敏腕刑事よりも優れている。デートの常套句もまるで意味がなくて、僕は自然体で構えることにした。
「じゃあ行こっか」
「うん。で、どこに行くの?」
昨日は浮かれすぎていたせいで集合場所しか決めていなかった。この辺は、牛丼屋はあってもカフェはない。いつも通り、数駅先の川崎周辺だろうと思っていたところ、振り返った志保さんが教えてくれた。
「渋谷だよ」
渋谷駅までは電車で40分ほど。その間、半分の脳みそで志保さんと雑談を行い、もう半分でどうして渋谷なのか考えた。志保さんは時間の浪費を嫌う。お喋りするだけなら遠出の必要はなく、何か目的があるはずだと頭を悩ます。ただ、店に着いてもこれといった理由は思いつかなかった。
そのカフェは、かの有名なスクランブル交差点を上から眺められるビルの三階にあった。偶然窓際の席に通されて、せわしない人の動きが眼下に映る。コーヒーが届くと、志保さんも頬杖をついて外を眺め始めた。
お喋りの内容は普段と変わりなかった。お互いに会話が得意じゃなく、そのせいで話題がころころと変わる。これも僕が不安に駆られる要因の一つだったわけだけど、今日ばかりは心にまだ余裕があった。
「あのミステリー映画、続編が出るらしいよ」
「ああ、あれ?面白かったけど、先読みしやすいのが玉に瑕だった」
今日はなかなか志保さんと視線が重ならない。理由は単純で、志保さんの目が交差点に釘付けになっているからだ。まさかこれを見に来たのだろうか。見ず知らずの人間に興味を奪われていることが少し悔しい。
「先読みできるのは志保さんだけだよ。探偵になれるくらい頭が切れるもんね」
「フィクションの探偵は好きだけど、現実の探偵は嫌い。だからなりたいとは思わない」
能力不足だと思っていないあたり、また格好良い。自分の哲学と相容れないとでも言いたげな涼しい顔をしている。
そうしてまた会話が止まる。さすがにこれが続くことは避けたい。そろそろ頃合いだろうと、僕は意を決して問いかけた。
「今日はこの交差点を見るために?」
「そう」
「夏の雲みたいだよね」
「ん?」
違ったらしい。ちょっと詩人な一面を披露してみたけど、志保さんには響かない。僕がやきもきしていると、志保さんはポシェットから四つ折りの紙を取り出した。
「人の顔を見てる」
「人の顔?」
紙を手渡されて、広げてみる。僕はどんな志保さんも受け入れるつもりでいた。だけど、この瞬間はさすがに言葉を失う。紙には重要指名手配という大きな文字と、10人分の顔写真と名前が印刷されていた。誰もが交番で見たことのある、指名手配のポスターだ。
「えっと」
「その顔が通らないかと思って」
「こんな人の多いところに来るかな」
思わず無理だよと言いかけた。それをぐっとこらえて、当たり障りのない言葉を返す。どんな反応が正解だっただろう。ポスターを凝視する僕は必死に頭を回転させる。そして窓の外に視線を向けた。
目を凝らせば、顔の判別はどうにかできる。とはいえ、この膨大な人数を全て確認するとなると話は別だった。志保さんの脳には最新のAIでも入っているのか。沈黙が続く。
乗り掛かった舟だ。そう決心したのは、このミステリアスをも許容できると結論付けた時だった。その一方で、心のどこかではこの取り組みは実を結ばないと軽んじていた。まさかそれを恥じることになるとは。
「あっ」
僕がビルの広告を眺めていたとき、志保さんが突然声を上げる。何事かと横を見ると、眉間にしわを寄せた志保さんが、目で何かを追いかけていた。そしてすぐ、ポシェットを乱暴に肩にかけて席を立つ。
「急いで」
「うん」
訳が分からない。それでも、志保さんの真剣な表情を見て、僕も膝をぶつけながら立ち上がる。まさかこの10人の誰かを見つけたというのか。もしそうなら大捕物だ。支払いは終わっているので、カップを返却棚に置いて店を出る。階段を二段飛ばしで降りる志保さんは、あっという間に人混みに飛び込んだ。
僕はその背中を見失わないように走る。信号がちょうど青に変わり、交差点を斜めに横断した志保さんは公園通りを北に入る。足まで速いことに感心していると、一人の男の背後で急停止した。
「すみません」
相手はグレーのリュックを背負った中年の男だった。右手に白い紙袋を提げていて、中にはこの時期には暑そうな上着や、値札がついたままのネックピローが入っている。服はヨレヨレで肩にかかる髪はボサボサ、無精ひげが不衛生感を出している。黒い帽子越しに歪んだ顔が見え、左手は腰をさすっていた。
「ん、なんや?」
「あなた、神原文雄さんですね」
名前が正しかったのだろう。神原は目を大きく見開く。少なくともあのポスターにこの顔はなかった。でも、別の手配犯の可能性があったため僕は気を張る。志保さんはというと、手を後ろで組んで無警戒だ。
「誰のこと?知らんで、そんな奴」
神原が目を泳がせながら言う。濃い関西弁の話者だ。僕も出身は関西なので、この独特のイントネーションは懐かしい。
「ご家族があなたを探してる」
「家族?ほんまに知らんって」
「仕事が辛かったのだとしても、家族を心配させるべきじゃない」
「そんなんええから。もう行っていい?」
神原は不快感を露わにする。危険な男ではなさそうだけど、事情が分からなくて会話に割って入れない。志保さんが黙っていると、神原は逃げるように去っていった。
「志保さん、あの人は?」
「失踪人だよ。家出して、家族が行方を捜してた。これ、見てみて」
志保さんは自分のスマホを操作して僕に見せる。それは行方不明者を探す民間団体のホームページだった。情報提供を求める家族が、失踪者の特徴や顔写真、メッセージを載せている。志保さんはリストの中から一人を選ぶ。それはまさしく先程の男だった。大阪出身の42歳で、ずっと実家暮らし。数年前まで建設関係の仕事をしていたが無職となり、二か月前に失踪となっている。
「これ、全部覚えてるの?」
「覚えられるだけ。ちょうど最近見返したばかりだったから」
志保さんの趣味にもはや何も言うまい。感心も後にして、もう一度スマホを見る。家族からのメッセージには、無事を祈って毎日泣いていますと書いてあった。それを見て、あのまま行かせて良かったのかと思い始める。
「これで良かったのかな」
「本人が戻りたくないのなら仕方ない」
「じゃあどうして声を掛けたの?」
「誰かが探していると実感するだけで、心変わりすることもある。それを期待しただけ」
元の居場所に戻るかどうかは、あくまでも本人次第という考え方らしい。正論なのだろうけど、僕は納得いかない。これでは家族の想いが宙ぶらりんだ。些細なことでもお伝えくださいという文面から、家族の苦しみが痛いほど伝わってくる。せめて見かけたことを伝えるべきではないか。ただ、志保さんはそんな考えに同意しなかった。
「全ての家族が綺麗なわけじゃないんだよ」
「そうだとしても、僕は伝えるべきだと思う」
あまり志保さんと衝突したくはない。これで難色を示されれば諦めるつもりだった。志保さんは、少し間を置いて渋々頷いた。
連絡はこの民間団体を通じて行う。志保さんのスマホを使い、神原を見つけた場所や時間を情報提供フォームに入力していく。僕はこれが家族の安堵に繋がることを切に願った。
この日は、渋谷に店舗を構える辛いラーメン屋で早めの夕食を取って帰ることになった。空が赤く染まる夕方、惜しみながら渋谷駅に歩いていると志保さんのスマホが鳴る。
「はい。そうですけど、はい」
志保さんのよそ行きの声は新鮮だ。でも、相手が気になった僕はその美声に集中できない。しばらくすると、志保さんはマイクに手を当てて僕を見る。馬鹿な考えに気付かれたのかと思ったが、そうではなかった。
「さっきの人の家族からだ。ちょうど東京に探しに来ているそうで、詳しい状況が知りたいから今から会えないかって」
こんな展開は予想していなかった。ただ、家族にしてみれば藁にも縋る思いだろう。断る理由はなかった。
渋谷のファミレスで待ち合わせとなって、僕と志保さんは約束の午後八時前に顔を出す。待っていたのは、神原より少し若いくらいの女性だった。長い黒髪を後ろで結び、綺麗な顔立ちをしている。背が高いと思ったけれど、それはヒールのせいだった。
「日比谷さんですか」
「はい」
「急なお電話申し訳ありませんでした。それと、お時間を作ってくださりありがとうございます。文雄の妹の神原奈々と申します。今日のこと、詳しくお伺いしたくて」
「とにかくお店に入りましょう」
奈々さんが公衆の面前で深々と頭を下げるものだから、僕からそう提案する。志保さんは黙っているだけで反応を示さない。これは僕の願いだった。よって、僕が会話を主導する。
「大阪からお探しに?」
「はい。週末は文雄が関係していそうな場所を家族で手分けして探しています。東京には好きな地下アイドルがいたとかで」
「なるほど」
奈々さんは憔悴しきった顔をしている。無理もない。家族が急に失踪すれば、僕だってそうなるだろう。僕はまず、神原を見つけた経緯をその時の様子と共に伝えた。さすがにきっかけが志保さんの記憶力だったことには驚かれた。奈々さんは全ての情報をスマホのメモに記していく。
情報提供は30分もかからなかった。ケーキセットのお代は奈々さんに出してもらい、終わり次第早々に解散する。奈々さんを見送っている間も、志保さんは相変わらず曇った表情をしていた。何がそんなに気に食わないのか。疑問に思っていると、志保さんの目が細まる。
「あの人、本当の家族かな」
「志保さん?」
その言葉はさすがに頂けない。僕が訳を聞こうとすると、志保さんは奈々さんが歩いていった方向に足を踏み出す。
「そのままの意味。違和感だらけだった。そうじゃない?」
まさか顔が似ていなかったとは言わないだろう。少し考えて一つ思いつく。
「関西弁じゃなかったこと?」
「それが一つ」
奈々さんも当然、大阪出身のはずである。その全ての人が関西弁の話者ではないだろうが、特徴的なイントネーションが一つも出なかったことは確かに不思議だった。しかし、それだけで疑っては失礼だ。
「それにあの髪はウィッグだった。頭を下げたとき、つむじが綺麗で気が付いた。メイクも濃かったし」
「変装だったって言いたい?」
「可能性の話。それだけじゃない。ヒールを履いていたことも」
志保さんが立て続けに疑問点を挙げる。それが何だと思いかけて、はっと気付く。
「東京の街中を探しまわるとしたら、普通は歩きやすい靴を選ぶ」
「そう。おかしいよね。サイトを通じて連絡したのだから家族のはずなのに」
志保さんはすぐに奈々さんの後ろ姿を遠くに見つける。どうやら後を追うつもりらしい。
「私の予想だと、あの人は指示されて会いに来ただけ。大阪から来たとか真っ赤な嘘だ」
「まさか。何のために」
「さあ」
奈々さんは井の頭線の渋谷駅構内に入っていく。遮蔽物が増えて、僕たちは距離を詰める。志保さんの話を聞くと、都心と郊外を結ぶこの路線に乗ることさえ怪しく思えた。
行き先はすぐに分かった。普通電車に揺られてわずか数駅、下北沢駅で下車した奈々さんは北に歩き、とある一軒家に入っていく。表札は吉田となっていた。
「ここが親戚か知り合いの家で、捜索の拠点にしているとか」
「ない。使っていたのはモバイルPASMOだったし、キーケースには表に駐車されてるベンツの鍵も一緒だった」
暗い中、そんなところまで観察していたのか。つまり、大阪在住ならICOCAを使っているべきで、家の鍵を借りたのだとしても、高級車の鍵まで一緒に渡されるなんて不自然だと志保さんは言っていた。
住宅街は静かで、歩行者はほとんどいない。奈々さんを問い詰めるべきか。そんなことを考えていると、志保さんは踵を返した。
「神原を探す」
「え?」
「これではっきりした。神原を探しているのは家族じゃない。家族を装ったのは、きっと警察に協力を依頼できないけれど、同情を誘って情報を手に入れるため」
「ということは?」
「神原は何かしらの犯罪に巻き込まれてる可能性がある」
志保さんと僕は再び渋谷駅に戻った。時刻は午後九時を回っているが、人の数はまだまだ多い。志保さんは電車に揺られている間もずっと考え事をしていた。邪魔をしないようにしていると、不意に声を掛けられる。
「夜行バスに乗るとしたらどこだろう」
「大きいところだと新宿か八重洲かな」
「神原は夜行バスで大阪に帰るつもりかも」
「新幹線じゃなくて?」
「あの風貌からして、持ち合わせは少ない。きっと借金絡みだろうし」
何者かに行方を追われていると聞いて、僕でも借金という単語が頭に浮かんでいた。東京で目撃され、移動するという行動も特に不思議はない。ただ、かつて住んでいた大阪に戻るというのはいささか軽率なように感じた。そう思っても、今は僕の意見など二の次だ。
「夜行バスなら、もう猶予がないかも。早いバスはそろそろ出発する時間だ」
学生の頃、僕も東京との往復によく夜行バスを利用していた。早い便なら九時台にも出発してしまう。
「多分、新宿だ」
「どうして」
「あの時、新宿方面に歩いていたから」
そんな馬鹿な。僕の言葉は喧噪の中に消えていく。志保さんはもう走り出していた。
山手線の外回りに乗って数分、新宿駅に到着する。バスタ新宿は駅と接続していて、僕らはまず、その待合室に向かった。
ここも人で溢れ返っていた。学生と思しき若者だけでなく、中高年、高齢者の姿も多い。大阪行きのバスも種類が豊富だ。
「手分けして探そう。私は係の人に聞いてくる。待合室だけじゃなく、周辺も見てきて」
「分かった」
僕は志保さんを信じて指示通りに動く。目印は帽子だろう。神原は顔を隠しているはずで、そういった人を重点的に見てまわる。
待合室にそれらしい人物はいなかった。僕は捜索範囲を広げて、タクシー乗り場や観光案内所にまで足を延ばす。この人混みの中、一人の人間を探すことは難しい。だからこそ、間違っても志保さんを疑ってはいけない。
10分ほどした時、不意にポケットのスマホが震える。志保さんからの着信だった。
「神原を目撃した人を見つけた。すぐ待合室に戻ってきて」
「本当に?分かった。すぐ行く」
信じられないという気持ちと志保さんへの畏怖が同時に込み上げてくる。胸を高鳴らせた僕は待合室へ急行する。志保さんは一人の係員と話していた。
「少し前に出たバスに乗ってたんだって」
「本当にこの人でしたか?」
神原の顔写真が志保さんのスマホに映ったままだったので、僕からも問いかける。係員は力強く頷いた。
「間違いないよ。最近は電子チケットで乗る人が多いんだけど、この人は紙に印刷して持ってきた。そんな年を取ってるわけでもないのに珍しいと思ったんだ」
「持ち物を覚えていますか?」
「灰色のリュックと大きな紙袋だよ。黒い帽子を被ってた」
神原で間違いない。僕はあと一歩遅かったことを悔やんだ。ただ、間に合っていたとしてどうだというのか。志保さんをチラッと見ると、顎に手を当てて思案顔をしていた。
「他にこの男のことを尋ねてきた人は?」
「さあ。知らないなあ」
「どうしたんだ?」
僕らが話し込んでいると、別の係員が近づいてくる。長話をしていたため、トラブルだと思ったのかもしれない。その係員は志保さんのスマホを見るなり指を差した。
「君たちもその人を探してるの?」
「君たちも、というのは?」
「ついさっきも聞いてきた人がいたんだよ」
「誰?いつのこと?」
志保さんの語気が強まる。その係員は袖をめくって腕時計を見た。
「30分前かな。若いお兄ちゃんが二人」
「その時、バスはまだ出発していなかった?」
「そうだよ。もう乗ったよって教えた。知り合いで最後の挨拶に来たと」
「それで?バスから降ろした?」
「いいや。出発間際だったし、そのお兄ちゃんも別に大丈夫ですって立ち去ったよ」
つまり、その二人組は神原の追手ではなかったのか。僕の楽観的な考えとは裏腹に、志保さんはこぶしを握り締めた。
「そのバスの停車場所は?」
「八王子で客を拾って、その後は京都駅と大阪駅。もうすぐ八王子に着く頃だよ」
志保さんはそれを聞いて首を横に振る。
「休憩で停車するでしょ?」
「ああ。海老名と長篠設楽原、草津だよ」
「ありがとうございます」
志保さんは頭を下げると同時に、僕の腕を引いてエスカレーターへと走り出す。その力が強くて僕の足は絡まった。
「追いかけよう。車がいる」
「え?今から?」
「神原の追手も今頃追いかけてる」
「まさかサービスエリアで?」
「そう。一番人の目が離れる」
志保さんは本気だ。僕は戸惑いながらも頷いた。レンタカー屋はもう間に合わない。そこで、カーシェアリングを使うことにした。スマホから予約ができて、手続きなしで車を借りられる。探してみると、ここから数分のコインパーキングに空車があった。
二人でそこまで走り、黒のコンパクトカーの鍵をスマホで開ける。志保さんは迷わず助手席に乗り込んだ。
「私、免許持ってないからお願い」
「そうなんだ」
僕もペーパーだけど、志保さんに頼られれば気合を入れるしかない。僕がシートを調整する間、志保さんがカーナビを操作する。
「海老名じゃないと思う。あそこは夜も人が多いから。でも万が一ってことがある。まずはバスに追いつこう」
「じゃあ飛ばさないと」
バスは既に八王子まで先行している。普通車の方が速度は出るが、僕の腕でその差を埋められるかは怪しい。そんな不安の中、志保さんの号令で車を発進させる。
東京の混雑した道を慎重に運転して、どうにか高速道路に乗る。時刻は午後10時を回った。交通量は比較的少なく、志保さんの指示で僕はアクセルを踏み込む。
海老名SAまでの道中に目的のバスはいなかった。高速バスはよく見かけるものの、行先や出発地、バス会社が違っている。一応、海老名SAに停車中のバスにも目を通したが、既に通過したと判断して次を目指す。
志保さんはスマホと車窓を交互に見て、顔は真剣そのもの。そんな雰囲気にあてられて、僕の口からはあくびの一つも出てこない。まさか、初めてのドライブがこんなことになるとは。これも志保さんと過ごす時間らしいと割り切るしかなかった。
静かな車内で変化があったのは、とうに日付が変わって愛知県に入った頃だった。フロントガラスに額を押し付けんばかりに身を乗り出した志保さんが、目の前のバスに叫ぶ。
「エウレーカ!これだ」
「後ろにつきます」
「もうすぐ長篠設楽原。間に合って良かった」
志保さんは安堵しているが、僕はむしろこれからを心配する。バスは予定通り、長篠設楽原PAに入る。それに続いていると、志保さんから指示があった。
「少し距離をとって停めて。それと、エンジンは切らないで。すぐ発進できるように」
「分かった」
車が完全に止まると、志保さんは勢いよくドアを開けて出ていく。バスからもぞろぞろと客が降りてきていた。
神原は遅れて姿を現した。本当は車内にとどまっていた方が安全だが、腰を痛めた中年が何時間も同じ姿勢で座ってはいられない。深く帽子を被り、周囲を警戒している。そこに近づく人影は志保さんだけではなかった。
「あっ」
僕は思わず声を出す。二人組の男が、志保さんより先に神原の両脇についたのだ。何かやり取りが行われているが、ここからではよく見えない。嫌がる神原を暗がりに連れ込んでいることだけは分かった。
それからは、まるでヒーローショーを見ているかのようだった。全力疾走で近づいた志保さんが、男の一人にドロップキックを食らわせる。そうして三人がばらけた瞬間、神原を回収した。僕は慌てて二人のそばまで車を移動させる。
「早く!」
窓を開けて叫び、二人を誘導する。志保さんと神原は後部座席に飛び乗った。
「出して!」
「やばいやばいやばい」
サイドミラーに鬼の形相をした男が映る。こんなにアクセルをベタ踏みすることは今後の人生でないだろう。けたたましい音を出しながら、車は高速道路の本線へと脱出した。
混乱状態の神原は、志保さんの顔を見てはっと驚く。僕らが味方だと分かってくれたらしい。首を突っ込んだのは僕らの方だ。でも、私たちを巻き込んだのだから事情を話せと志保さんは迫った。
「あいつらは借金取りや。俺がなかなか返さへんからいい加減怒ったんやろ」
「いくら借りた?」
「百万ばかし。それが暴利で膨れてえらいことなった」
「何のために」
僕らにそれを聞く権利はない。ただ、志保さんの鋭い視線に神原は口を開く。
「おかんの入院代。末期癌でどうにもならんかったけど、痛い痛い言われたらどうにかしたなってな。仕事もせえへん引きこもりの馬鹿息子やけど、そう思ったんや。そのおかげか逝くときはええ顔してたわ。でもそっから取り立てがしつこなった。逃げてんけど、おかんの骨、家に置きっぱなしにできひんやろ」
「戻るってことは返済の目途が立った?」
「数百万やで?無理に決まってるやん。ずっと家族はおかんだけやった。借金抱えて一人で生きていけへんし、せめて死ぬなら大阪の実家やと思って」
「アホか!」
突如、車内に志保さんの関西弁が響く。ルームミラー越しにその顔を見ると泣いていた。
「お母さんのためにお金を工面しようとした親孝行者が、どうしてそうなるの?お母さん、そんなこと願ったと思う?」
「でも、あんな大金もう無理や」
「無職に百万貸すなんて相手は無許可に決まってる。その場合、元本含めて返さなくていいんだよ。逃げ回ってるうちにそれくらい気付くでしょ。このどら息子」
「志保さん」
僕が宥めると、志保さんは大きくため息をついてハンカチを取り出す。神原は俯いたまま黙っていた。
「知り合いに弁護士がいる。困ってる人に無償で弁護活動してるの。紹介してあげるよ」
「なんで俺なんかに」
「私たちに後味悪い思いをさせたいの?」
「そうは言ってへんけど」
「実家に行くつもりだったんでしょ?一緒に手を合わせましょう。その代わり、実家は借金取りが張ってるだろうし、この車で東京に戻って問題と向き合うの。いい?」
志保さんの説得に負け、帽子を被り直した神原が頷く。ひとまず丸く収まって何よりだ。僕もようやく会話に参加する。
「ところで神原さん、免許持ってます?」
「いやいや、こっちは引きこもりやで?持ってるわけないやん」
それを聞いた僕は、あくびを噛み殺して大きく息を吸う。凝り固まった首を回すと大きな音が鳴った。