第89話:記録に残らない旅人
翌朝、アルフたちは情報の「仕入れ」を行うべく、ヴェルトの役所付近へと足を運んだ。まずは自分たちの立ち位置を確認する――それが商売人の鉄則だ。だが、そこで判明したのは、ヴェルトの街という強固な「帳簿」が、彼らという存在を拒絶しているという奇妙な事実だった。
消えた署名
「……名簿にない、だと?」
アルフの問いかけに、門番の男は困惑したように頭を掻いた。
「ああ、お前さんたちの顔はよく覚えてる。昨日の昼過ぎ、確かにこの門を通した。間違いない。だがな、見ろよこれ」
差し出された入市署名帳。アルフたちの入った時刻の欄は、不気味なほどに真っ白な空白だった。インクが掠れた跡すらない。まるで、そこにペンを走らせたという事実そのものが、紙の表面から弾き飛ばされたかのようだ。
シエナが背後で影を薄くしながら、冷たい視線を走らせる。
「門番の記憶には残っているのに、公式の記録には残っていない。……私たちの存在そのものが、この街のシステムにとって『不正なデータ』として処理されているわけね」
ニコは自身の二重になった影を見つめ、不安げにカレンの袖を握った。
「結果」としての存在
その時、通りを塞ぐように純白の法衣を纏った一団が現れた。昨夜の宿を襲った末端の兵ではない。より高位の、因果の理を司る「観測官」たちだ。
彼らは武器を抜かず、ただ無機質な眼差しでアルフたちを見つめた。周囲の喧騒が、彼らの存在によって真空に吸い込まれるように静まり返る。
「……何の商談だ。昨日の連中の利息を払いに来たのか?」
アルフが影の杭を練りながら問う。だが、中心に立つ白装束の男は、首を横に振った。
「戦う価値はない。あなた方は、まだここに来ていないのだから」
「……何?」
「我々の持つ『正しい因果の帳簿』において、あなた方は数日前にあの迷宮で消滅、あるいは別の結末を迎えているはずの存在だ。しかし、目の前にいる。この矛盾を、世界の理がまだ処理しきれていない」
白装束は、まるで存在しない亡霊に語りかけるような、空虚な声で続けた。
「あなた方は、すでに『結果側』に立っている。世界という『過程』が、あなた方の存在に追いついていないのだ。ここにいない者に、我々の法を裁くことはできん」
そう言い残すと、白装束たちは背を向け、静かに雑踏の中へと消えていった。
追いつかない世界
「……追い払ったというより、無視されたな」
アルフは自分の影を見た。
相変わらず、影は半拍遅れて、先ほどアルフが影の杭を練ろうとした動きを今さらなぞっている。
ピーターの訓練による位相のズレ。それは単なるステルス機能ではなかった。
彼らはすでに、この世界の物語が導き出す「結末」を先取りしてしまった存在なのだ。
(田中豪の感覚で言えば、これは『決済済みの案件』だ。すでに支払いは終わっているのに、経理の処理が追いつかずに伝票だけが宙に浮いている状態……)
「お兄ちゃん……。あの人たち、私たちが見えてるのに、見てなかった」
カレンがぽつりと呟いた。
「都合がいい。記録に残らないなら、どんな禁じ手も使い放題だ。シエナ、アズライト。世界の側が俺たちに追いついてくる前に、この街の心臓部を買い叩くぞ。記録には残らなくても、俺たちの『利益』は実体として奪い取ってやる」
アルフの瞳には、因果律のバグすらも利益に変えようとする、不敵な商売人の光が宿っていた。




