第84話:生への渇望
ニコが差し出した不格好なパンを、アルフは迷わず受け取った。手に持っただけで伝わる熱量は、単なる焼き立ての温度ではない。それは、とりもなおさずニコの「生きたい」という意志そのものであった。
アルフは野生の獣のように、豪快にそのパンにかじりついた。
「……っ!」
口の中に広がるのは、暴力的なまでの生命の奔流だった。泥水をすすり、金と数字にのみ価値を見出していた田中豪の魂が、その瑞々しい生命力に震える。欠損しかけていた魔力が急速に補填され、ボロボロだった細胞の一つ一つが歓喜の声を上げて再構築されていく。
「……はは、最高の配当だ。どんな高級なフルコースよりも、身体に染み渡る」
アルフは口元を拭い、力強く立ち上がった。その背中からは、先ほどまでの疲弊が嘘のように、研ぎ澄まされた黒い魔力が立ち昇っている。
その様子を、迷宮の影から三人の師匠たちが静かに見つめていた。老戦士、女剣士、そして呪術師。彼らは因果の向こう側からピーターに呼び寄せられた教師として、教え子たちの最終的な成果を査定するために現れた。
「……ふむ。王宮の飼い犬としての未練を、完全に切り捨てたようだな。シエナ・レオン」
女剣士が、静かに一歩前に出た。彼女の視線の先には、返り血を浴びながらも一点の曇りもない瞳をしたシエナがいた。
「型に縛られず、ただ殺すという一点にのみ理を収束させた。今の貴様の剣は、因果の隙間を縫う影そのものだ。合格と言わざるを得ないな」
シエナは無言で一礼し、自らの新たな剣を鞘に収めた。それは騎士としての死と、一人の暗殺者としての誕生を意味していた。
次に、呪術師がニコへ視線を向ける。
「ニコ、お前の焼いたパンは、もはやただの食料ではない。闇の住人、トリビコザルとして奪われ続けてきた命を、自らの手で再生させる契約の証となった。あの怪物の少年を生かせるのは、世界でただ一人、お前だけだ」
ニコは誇らしげに、空になったパンの袋を抱きしめた。彼女の理は、絶望を糧に明日への活力を生み出す、稀有な因果へと昇華されていた。
最後に、老戦士がアルフとカレンの前に立った。
「そして、アルフ。お前はついに、己の命すらもチップとして盤上に載せる、真の勝負師となった。カレンという最強の資産と運命を共有し、因果律そのものを力ずくで書き換えるその不遜さ……。ピーターが目をかけるだけのことはある」
老戦士の言葉に、アルフは不敵な笑みを浮かべた。
「……買い被りですよ。俺はただ、手元の資産を守るために最善の投資をしているだけだ。損失を出さず、最大のリターンを得る。それが俺のやり方だ」
カレンもまた、アルフの手をしっかりと握り締め、その意思を肯定するように微笑んだ。
「……修行は終わりだ。お前たちは、もはや何者にも縛られない。この狂った輪廻の輪を、お前たちの足で踏み外して来い」
師匠たちの姿が、霧に溶けるように消えていく。彼らが最後に残したのは、新たな旅路への免状であった。
アルフは迷宮の出口、その先に広がる未知の世界を見据えた。ピーターが去り、因果が激変したこの世界で、成金王の新たな商談が始まろうとしていた。




