第78話:盤上の師
ピーターたちが残した光の奔流が消え去り、この世界から二人の異端者が消失してから数日が経過した。
アルフ、カレン、シエナ、そしてニコの四人は、北の辺境に広がる忘却の迷宮の入り口へと辿り着いていた。そこは因果律の揺らぎが激しく、白装束の監視も届かない隔絶された聖域だった。
「……ここだな。ピーターの野郎、とんでもない場所に送り込みやがって」
シエナが負傷した左肩を抑え、毒づく。だが、迷宮の門をくぐった瞬間、彼らを待っていたのは静寂ではなかった。
「ようやく来たか。遅すぎる。商談相手を待たせるのは三流のすることだぞ」
霧の向こうから、三人の影が音もなく現れた。ピーターがこの修行のために、あらかじめ因果をねじ曲げて呼び寄せていた「修行相手」たちであった。
分かたれる道
現れた影のうち、一人は重厚な鎧を纏った老戦士、もう一人は顔を隠した奇妙な呪術師、そして最後の一人は、どこかピーターに似た不遜な空気を纏う女剣士だった。
「シエナ・レオン。お前は私と共に来い。王宮の飼い犬だった頃の甘さを、その身から削ぎ落としてやる」
女剣士がシエナを指差す。シエナは一瞬だけ躊躇したが、自らを変えなければカイルのような刺客に再び屈することを知っていた。彼女は黙って、女剣士と共に迷宮の深部へと消えていった。
「パン屋の娘、ニコ。お前の焼くパンには、まだ『意志』が足りない。命を守るための食、その真髄を教えてやろう」
呪術師がニコを誘う。ニコは震える手でパンの袋を握りしめていたが、アルフとカレンの背中を一度だけ見つめ、覚悟を決めたように呪術師の後に続いた。
最悪の投資家
最後に残されたのは、アルフとカレン。そして、二人を静かに見つめる老戦士だった。
「さて、アルフ。そしてカレン。ピーターから話は聞いている。お前たちには、この世界の因果を根底から覆すための『理』を叩き込む必要があるとな」
老戦士が放つ威圧感は、先ほどのカイルとは比較にならないほど重厚で、冷徹だった。アルフの中の田中豪が、警鐘を鳴らす。目の前の男は、ただの武人ではない。命を「数字」としてではなく、「重み」として完全に支配している。
「カレンは俺が守る。……修行でも、それは譲らない」
アルフがカレンを背後に庇い、黒い魔力を指先に灯す。老戦士はそれを見て、薄く笑った。
「守る、か。いいだろう。だがな、アルフ。守るためのコストを計算しきれなかった時、お前が支払うのは自分自身の魂だ。この修行で、お前が飼い慣らした『怪物』を、一分一秒の狂いもなく支配して見せろ」
老戦士が剣を抜くこともなく、ただ一歩踏み出す。その瞬間、アルフとカレンの足元の影が爆発し、迷宮の景色が血のような赤に染まった。
「修行開始だ。利息は命で払ってもらうぞ」
アルフはカレンの手を強く握り締め、自分の中に巣食う怪物に囁いた。
(……おい、田中豪。ここからは赤字は許されないぞ。死ぬ気で利益を毟り取れ)
二人の孤独な戦いが、今、始まった。




