第73話:因果崩壊
作戦室の空気は、物理的な重さを伴って凍りついていた。カレンの細い喉元に添えられたカイルの薄刃。それは、ピーターがどれほど速く動こうとも、一瞬で彼女の命を断てる絶望的な距離だった。
「カイル、手を離せ。お前が守ろうとしている運命とやらは、子供を盾にするほど安いものだったか?」
シエナが声を絞り出す。だが、カイルの瞳に揺らぎはない。
「シエナ、感情は因果を曇らせる。この少年は、世界が定めた輪廻の輪から外れた異物だ。そしてこの娘は、その異物をこの地に繋ぎ止める楔に過ぎない。楔を抜けば、歪んだ因果は再び正しい軌道へと戻る。それだけの話だ」
意識の底。闇の中に沈んでいたアルフの耳に、聞き慣れた声が響く。
田中豪。かつて金ですべてを支配した傲慢な男が、アルフの精神世界の玉座に踏ん反り返り、嘲笑っていた。
「おい。いつまで寝ている、無能なガキめ」
「自分の最高級の商品が、目の前で廃棄処分されようとしているんだぞ。お前はまた、あの時と同じように後悔を地獄へ持っていく気か?」
「……黙れ。わかっている。……動けないんだ」
「動けない? 冗談を言うな。お前はさっき、人を殺すための理を手に入れたはずだ。感情を捨てろ。損得勘定をしろ。あの男の刃が動くよりも早く、お前の魔力が届く方法は一つしかないだろう?」
「それは……カレンを傷つける可能性がある!」
「リスクのない投資がどこにある! 守るために傷つけることを恐れるな。お前が怪物を飼い慣らしたというのなら、その爪の先を、針よりも細く、氷よりも冷たく研ぎ澄ませろ。さあ、目覚めの時間だ、成金王」
「……いいだろう。なら、代償を払え」
カイルが短剣に力を込めた、その刹那だった。床に倒れ伏していたはずのアルフの指先が、音もなく動いた。
「――っ!?」
カイルが反射的に刃を引こうとしたが、それよりも早く、アルフの影から漆黒の魔力が触手のように噴き出した。それはカレンを傷つけるためではなく、彼女の身体を強引に引き寄せるための、精密な物理の力であった。
「な……!?」
アルフは立ち上がりもせず、ただ地面に手をついたまま、虚ろだが凍てつくような瞳でカイルを見据えていた。
「……俺の持ち物に、勝手に触るな。その命にどれほどの価値があるか知らないが、俺が買い取ったものだ。因果を払わせたいなら、俺を通せ」
アルフの声には、以前のような怯える少年の響きは欠片もなかった。冷徹な計算、そして目的を遂行するためなら、自らの身を切ることすら厭わない成金王の非情さが、その小さな身体から溢れ出していた。
カレンは魔力の影に包まれ、アルフの腕の中へと回収される。カイルの短剣は、ただ虚空を切り裂いた。
「……面白い。因果律の綻びどころではないな。お前は、この世界の根底を腐らせる毒そのものだ」
カイルが再び構え直す。ピーターはアルフの豹変した気配を察し、ニヤリと口角を上げた。
「ようやくお目覚めかよ、少年。さて、お喋りは終わりだ。ここからは、俺たちのやり方で清算させてもらおうか」




