第68話:明日のことは知っている
救護と静寂
地下の医療施設へと戻った一同を待っていたのは,重苦しい沈黙であった.ハルトはピーターの指示通り,外に転がる「残骸」を淡々と処理しており,その姿はまるで壊れた玩具を片付ける子供のように無機質であった.
シエナは診察台に腰掛け,激痛に顔をしかめながら自ら左肩の防具を外した.肉を貫いた傷口からは,未だに鮮血がどろりと溢れ出している.
「……シエナ,動くな.止血を優先する.」
アルフが消毒液と包帯を手に取り,彼女の前に立った.人を殺めた直後のその手は驚くほど震えておらず,むしろ氷のような冷静さが指先に宿っていた.アルフの中の田中豪が,戦場における優先順位を冷徹に告げていたからである.
「アルフ……あんた,その手…….」
シエナが掠れた声で呟いた.彼女の瞳には,少年が初めて一線を越えたことへの懸念よりも,そのあまりの「馴染み方」に対する恐怖が浮かんでいた.
「……痛みは,生きてる証拠だろ.我慢しろ.」
アルフはそれだけ答えると,手際よく傷口を縫合し始めた.
灰色の裏切り
ピーターは部屋の隅で,奪い取った白装束の仮面を弄んでいた.彼のおどけたテンションは完全に消え去り,その瞳は深淵を覗き込むような暗い色を湛えている.
「『灰色の影』……か.シエナ,お前にとっては聞きたくない名前だったな.」
ピーターが投げかけた言葉に,シエナは奥歯を噛み締めた.
「……カイル.かつて王宮の影で,私と背中を預け合った唯一の男だ.あいつが私の癖を熟知しているのは当然だ……だが,なぜあいつが『白』に加担している? あの部隊は,王宮からも忌避される狂信者の集まりのはずだ.」
「理由は簡単だぜ.お前が『因果から外れた状態』になったからだ.」
ピーターは仮面を床に転がすと,壁に貼られた地図の一点を指差した.
「王宮も,ギルドも,この世界の『仕切ってる奴』は予定通りのシナリオを進めたがっている.そこに俺やアルフ,そして事情を知りすぎたお前が現れた.カイルって男は,世界を安寧を保つための『役者』に成り下がったってわけだ.」
シエナの拳が震える.裏切り。その代償として支払われたのは,彼女の誇りだけではなく,ニコの父ルカの命でもあった.
泥のパン
施設のキッチンでは,ニコが椅子に座ったまま動かずにいた. 彼女の目の前には,先ほど平原で落としたパンが並べられている.泥に汚れ,無残に潰れたそれは,もはやかつての香ばしい平和を象徴するものではなかった.
アルフがシエナの処置を終え,ニコの元へ歩み寄った. 彼は何も言わず,泥の付いたパンを一つ手に取り,汚れを払って自分の口へと運んだ.
「……アルフ,さん? それは,汚れて…….」
ニコが虚ろな瞳を上げる.アルフはジャリリと砂を噛む感触を無視して,そのパンを飲み込んだ.
「……不味くない.ルカさんが教えてくれた味だ.」
アルフの声には,同情も憐れみもなかった.ただ,目の前の少女を「生かす」ための執念だけが籠もっていた.
「ニコ.お父さんは死んだ.帰る場所もなくなった.……でも,お前が焼いたこのパンは,まだここにある.これを食って生きるか,それともここで腐るか.選ぶのはお前だ.」
成金王としての非情さと,アルフとしての不器用な情愛が混ざり合った言葉. ニコは震える手で泥のパンを掴み,涙を流しながらそれを口に押し込んだ.
「……っ……う,ぅ…….」
嗚咽と共に咀嚼されるパンの味は,血と泥と絶望の味がした. だが,それは彼女が「地獄」で生きるために飲み込まなければならない,最初の栄養であった.




