第67話:泥中、微睡みに沈む
平原に漂う血の臭いと、ニコが抱えるパンの香ばしい匂いが混ざり合い、吐き気を催すような不協和音を奏でていた.ピーターに突き出されたニコは、目の前に転がる凄惨な光景に足を震わせ、今にも崩れ落ちそうであった.
死に体の告白
ピーターは泥にまみれた白装束の頭を無造作に掴み上げ、その仮面を剥ぎ取った.現れたのは、どこにでもいるような無機質な男の顔であったが、その瞳には死を目前にしても揺るがない、狂信的な光が宿っていた.
「おい、掃除屋.この子が焼いたパンだ、美味そうだろ? 死ぬ前に冥土の土産に一つどうだ」
ピーターがニコの手からパンを一つ奪い、男の口元へ突きつける.男は血を吐き出しながら、冷笑を浮かべた.
「……無駄だ.我らは『声』に従うのみ.不純物はすべて……根絶した」
その言葉に、シエナが負傷した肩を押さえながら一歩前に出た.
「『声』だと? 誰が私の情報を売った.ギルドか、それとも王宮の飼い犬か」
「……ククッ、シエナ・レオン.貴様は、とうに『不要』と判断されたのだ.貴様の足取りを売ったのは……貴様が最も信頼していた、あの『灰色の影』よ」
シエナの顔が、怒りと驚愕で白く染まった.かつて背中を預けた戦友の名が、裏切りの代名詞として突きつけられたからであった.
崩壊する「光」
男の視線が、震えるニコへと移った.その瞳に宿る不吉な光に、アルフは直感的な危うさを感じ、彼女の前に立ち塞がろうとした.しかし、男の口から漏れた言葉の方が早かった.
「……パン屋の娘か.無意味な努力だったな.ルカ・モレノは死んだ.お前の帰る場所は、もう灰と血の中にしかない」
「……え?」
ニコの持つパンの袋が、カサリと音を立てて地面に落ちた.
「嘘……お父様が……そんな……」
「フォンセというパンはないと言った……あの愚かな老いぼれは、最期まで無価値な慈悲を乞いながら……我らの刃に沈んだ」
ニコの脳裏に、優しく微笑む父の姿が、血に染まる光景となって強制的に上書きされる.彼女の絶叫すら出ないほどの絶望が、冷たい平原を支配した.
非情の決着
「……お喋りが過ぎるぞ、掃除屋」
アルフの声は、驚くほど冷徹であった.彼の中の「怪物」――田中豪の冷静さが、ニコの絶望を前にして、氷のような怒りへと昇華していた.
アルフは一歩、男に歩み寄った.その手には、黒く鋭利に研ぎ澄まされた魔力が、もはや「力」ではなく「意思」として収束している.
「アルフ、待て! そいつはまだ――」
シエナの制止も届かない.アルフは迷うことなく、男の喉元を魔力の杭で貫いた.
「……帰る場所を奪った報いだ.地獄でパズルでも解いてろ」
男の瞳から光が消え、平原には再び沈黙が訪れた. ニコはその場にへたり込み、泥に汚れたパンを見つめながら、声も出さずに震えている.ピーターはその様子を、感情を読み取らせない瞳で見つめた後、ハルトに短く命じた.
「ハルト、収穫はあった.こいつらを片付けよう.……シエナ、お前は中に入って傷を塞げ.これ以上血を流すと、パンが不味くなる」
ハルトは音もなく頷き、骸の山へと歩み寄った.彼の無機質な瞳には、奪われた命への哀悼も、勝利への悦びも存在しなかった.
日常という名の「光」を完全に失ったニコと、怪物の背に跨がったアルフ.そして、因果をねじ曲げてでも何かを成そうとするピーター. 血塗られた夜明けが、静かに彼らを照らし始めていた.




