62話:そして誰も居なくなった
地下室で温かいパンを囲むアルフたちの時間は、束の間の奇跡のような安らぎに満ちていた。同時刻、彼らを拒絶した街、エネアッドの片隅にある「モレノのパン屋」では・・・
喧騒のパン屋
ニコが突如として姿を消してから、店主ルカ・モレノの仕事量は限界を超えていた。
「おい、店主! あの『白い悪魔』のガキはこの店によく来てたんだろ? 何か知らねぇのか!」 「写真は撮らせてもらうぞ。王族献上品の少女が立ち寄った店として記事にするからな!」
店内は、アルフの事件を聞きつけた野心的な情報屋や、懸賞金に目を輝かせる荒くれ者のハンターたちでごった返していた。ルカはそれらの怒号や無遠慮な視線を受け流しながら、常連客達のために黙々と生地を捏ね続けていた。
「すみません、その話はもう何度も……。それより、もう少しでパンが焼き上がりますから、どうか静かに……」
ルカは腰の痛みを堪え、優しく微笑んだ。一人娘のニコがいない不安で胸が張り裂けそうだったが、それでも彼は店を閉めなかった。自分を待っているスラムの人々、毎日パンの耳を配り続けてきた「日課」を、一刻も欠かすわけにはいかなかったからだ。
「トリビコザル」
時刻は、スラムの住人たちが集まり始める直前。 店の入り口の鈴が、低く重い音を立てて鳴った。
入ってきたのは、全身を無機質な白装束で包んだ集団だった。その不気味な威圧感に、騒いでいたハンターたちも思わず口を閉ざす。
先頭に立つ男が、ルカの目の前に立ち、聞き取りづらい枯れた声で一言だけ呟いた。
「……フォンセ」
ルカは手を止め、不思議そうに首を傾げた。
「フォンセ……? すみません、うちではそのような名前のパンは置いていないんです。もしよかったら、他のものを――」
ルカが言い終わるより、その「違和感」の方が早かった。 ルカは自分の腹部に、熱い、それでいて冷たい感触が走るのを感じた。視線を落とすと、白装束の袖から伸びた細い刃が、彼の体を深く貫いていた。
「……あ、……ぁ……」
慈愛に満ちた老パン職人の瞳から、急速に光が失われていく。
「店主……ッ!!」 「貴様ら、ルカさんに何をしたあああ!!」
腹部を貫かれ、崩れ落ちるルカの姿を見て、奥から飛び出した従業員たちが絶叫する。彼らにとってルカは単なる雇い主ではなく、行き場のない自分たちを拾ってくれた親も同然の存在であった。だが、その叫びが空気を震わせるより早く、白装束の腕が冷徹な弧を描く。
銀光が一閃。
抗う暇もなく、従業員たちの首が舞う。小麦粉が降り積もる床を、噴き出した鮮血が赤く汚していく。
「ルカさんの仇だ! やっちまえ!!」
店内にいた常連客たちが、椅子や食器を手に立ち上がる。彼らはかつてスラムで飢え、ルカが配るパンの耳で命を繋いだ恩を忘れてはいなかった。彼らの顔にあるのは恐怖ではなく、唯一の救いを奪われたことへの、剥き出しの怒りであった。
しかし、白装束の集団は一切の感情を排し、ただ機械的に、効率的に「掃除」を遂行する。彼らにとって、そこにいるのは人間ではなく、排除すべき「雑音」に過ぎない。
静寂のパン屋
「チッ、王宮の掃除屋か……! 俺たちの獲物を横取りする気かよ!」
金に目の眩んだ懸賞金ハンターたちが剣を抜く。だが、それすらも無意味な足掻きに過ぎなかった。圧倒的な格の差。白装束が影のように通り過ぎるたびに、男たちの喉笛が裂かれ、悲鳴はあぶくとなって消えていく。
数分の後。 パン屋を支配したのは、耳が痛くなるほどの静寂であった。
空中に舞った小麦粉が雪のように静かに降り注ぎ、横たわる骸の上に白い層を作る。焼き上がったばかりのパンの香ばしい匂いと、鼻を突く鉄臭い血の匂い。スラムの人々を照らし、明日への希望を繋いできた「優しい光」は、理不尽な暴力によって、誰にも知られず、徹底的に踏み消された。
床には、ルカが最後に握りしめていたパンの耳が、持ち主を失って転がっている。
そして誰も居なくなった。




