61話:なまえ
地下室に漂う香ばしいパンの匂いが、刺さるような殺気を霧散させていた。焼き上がったのは、サクラの薪の香りがほのかに移った、黄金色の丸パンだ。ニコが丁寧に切り分けたパンを囲み、四人は即席のテーブルについた。
「……ふぅ。毒が入っているようには見えないな」
シエナが毒づきながらもパンを口に運ぶと、その表情がわずかに和らいだ。外側は驚くほどパリッとしており、中はアルフの魔力が生んだ熱によって、しっとりと甘みを蓄えている。
不透明な拠点
食事が進むにつれ、張り詰めていた糸が緩んだのか、シエナがパンを咀嚼しながら口を開いた。
「それで、少年。改めて聞くが、ここはなんなんだ? 貴族の医療施設にしては警備が異常だし、このふざけた男の正体もわからん」
「……俺も、ここに来てまだ数日なんだ。正直、あんたと同じくらい何も知らない」
アルフが正直に答えると、隣でパンを頬張っていたピーターが「うんうん」と深く頷いた。
「本当だよなー。俺もここ、謎が多いと思うわ。誰が管理してんだろうね、不気味だわー」
アルフ、シエナとニコからの冷ややかな視線がピーターに突き刺さる。ピーターはそれをどこ吹く風で、パンをマヨネーズに浸して食べていた。
異世界の文字、異邦の影
「……ピーター。あんたのあのノート、さっき見たんだ」
アルフが真剣な面持ちで切り出した。
「あの奇妙な記号……この世界の文字じゃない。あんた、本当は異世界から来たのか?」
その場の空気が一瞬、物理的に重くなったような気がした。ピーターはマヨネーズの付いたパンを口に放り込むと、一呼吸置いて、いつになく静かな声で答えた。
「……そうだよ。君のいた世界とは、少し、いや、かなり違う場所だけどね」
彼がかつていた場所。それは、終わりなき戦火が吹き荒れ、歴史が別の道を歩んだ大東亜帝国という名のIFの世界。だが、ピーターはその詳細を語ることはせず、すぐにいつもの不敵な笑みに戻った。
「ピーター・ブレッド」の回答
「まあ、そんな湿っぽい話はどうでもいいんだ! それよりニコちゃん、このパン、やっぱり最高だね。さすがはルカ・モレノの娘だ」
突然出た父親の名前に、ニコが驚いて顔を上げた。
「えっ……!? な、なんでお父様の名前を知っているんですか? お父様はただの街のパン職人なのに……」
「ん? ああ、俺は彼の熱烈なファンなんだよ。彼の焼くパンのファン、彼の生き方のファン。だから君をここに拉致(招待)したってわけ。納得した?」
「は、はぁ……(全然納得できない……)」
ニコは当惑しながらも、それ以上は追求できなかった。ピーターの言葉は嘘のようにも聞こえたが、その瞳の奥には、彼にしか見えない「過去の記憶」と「現在の執念」が混ざり合った、複雑な光が宿っていたからだ。
そこへ、空間が微かに揺らぎ、ハルトが音もなく姿を現した。
「……周辺、異常なし」
「お、ハルト。お疲れ。ニコちゃんのパン、食うか?」
ニコは、自分たちをここに連れてきた張本人であるはずのハルトに対しても、その実直な報告を聞くと、おずおずと一切れのパンを差し出した。
「……よかったら、食べてください。焼きたてですから」
「…………ありがとう」




