60話:いともたやすく行われる、えげつない行動
地下室に響き渡る剣鳴と、焦燥感。シエナの剣閃は鋭く、容赦がない。金貨という確かな「報酬」を受け取った彼女は、プロの傭兵として、目の前の少年の限界を引き出すことに全力を尽くしていた。
「おい少年! 逃げてばかりでは、その黒い靄は一生お前の主にはならないぞ!」
シエナの突きがアルフの脇腹を掠め、訓練着が裂ける。アルフは歯を食いしばり、暴発しようとする魔力の奔流を必死に押し留めていた。
「職人」の領域
その喧騒の傍らで、ニコ・モレノは一変した顔つきで木台に向かっていた。先ほどまでの怯えは消え、その瞳にはパン職人の血筋が宿っている。
彼女はボウルに盛った小麦粉の中央を窪ませ、そこに慎重に水を落とす。粉の山を崩さぬよう、指先で円を描きながら水分を均一に吸わせていくその手つきは、淀みがない。
やがて一塊になった生地を台に叩きつける。**「ドンッ」**という重厚な音が地下室に響く。ニコは生地の端を掴んで手前に引き、手の付け根(掌根)を使ってグイと向こう側へ押し伸ばした。
生地の弾力を指先で感じ、グルテンが繋がる瞬間を見極める。何度も、何度も生地を叩きつけ、折り畳み、練り上げる。表面が絹のように滑らかになり、赤ん坊の頬のような弾力を持つまで、彼女の動きに一切の迷いはなかった。
「アルフさん……窯の温度が、まだ足りません……! 外側はパリッと、中はしっとりさせるための、あの『一番熱い瞬間』をください……!」
「熱」の制御
「アルフ! 左だ左! ニコちゃんのパン窯を見ろ! 火力が足りねぇぞ!!」
ピーターがアズライトの聖剣をバットのように振り回しながら絶叫する。
「無茶言うな! 戦いながら火加減なんてできるかよ!」
「できるかできないかじゃない、やるんだよ! お前の魔力は破壊のためだけにあるんじゃない。『質』を変えろ! 爆発させるな、細い糸のように紡いでニコちゃんの窯に流し込め!」
ニコの必死な訴えに、アルフは困惑しながらも集中した。アルフはニコの父親のことも、彼女がなぜここにいるのかも知らない。ただ、懸命に生地と格闘する彼女のプロとしての姿に、圧倒されていた。
(……壊すためじゃない。カレンを守るため、そして、今は目の前のこの子に応えるために……!)
アルフの周囲を漂っていた荒々しい黒い霧が、一瞬だけ収縮した。それは鋭い刃ではなく、柔らかな**「熱の帯」**となって、ニコのパン窯へと吸い込まれていく。クヌギやサクラの薪が弾け、理想的な熱が窯を満たした。
「……ほう。少しはマシになったじゃない」
シエナは剣を止め、感心したように息を吐いた。彼女の肌を焼くような不快な魔圧が、ほんのわずかだが「意志」を持ったエネルギーへと変質していた。
開拓者の眼差し
「よし、及第点だ! さあ、テイスティング・タイムといこうぜ!!」
ピーターはこれまでの基地外染みたハイテンションを維持しつつも、アルフが魔力を制御した瞬間の動きを逃さず、壁にピン留めされた情報ノートに素早くペンを走らせた。
ふとした瞬間、ピーターの視線がその横の世界地図に止まる。
そこには、この世界の主要都市とは別に、彼にしか分からない印がいくつも刻まれている。ノートにびっしりと書かれた漢字の羅列は、彼がかつて培った「生存戦略」の記憶であり、この世界のどこかにいるはずの、大切な存在へ繋がる唯一の道標であった。
その時のピーターの横顔には、ふざけた影は微塵もない。それは、未開の地をたった一人で切り拓こうとする、孤独な開拓者の顔だった。
「……ピーター?」
アルフが呼びかけると、ピーターは瞬時にいつもの「いかれた言動」へと戻り、アズライトの聖剣を高く掲げた。
「なんだいアルフ! パンが焼ける前に空気椅子三時間やりたいってか!? その心意気、嫌いじゃないぜ!!」
「言ってねぇよ!!」
アルフのツッコミが響く中、ニコの窯からはサクラの薪特有の香ばしい匂いと、焼き立てのパンの香りが漂い始めた。それは、この殺風景な「工場」に、唯一もたらされた確かな安らぎの予感であった。




