57話:静かなる決意
エネアッド中央医療施設の夜は、深淵のような静寂に包まれていた。窓の外を見やれば、かつてアルフたちが肩を寄せ合って生きてきた街が、冷たい月光の下で沈黙している。昨日の喧騒が嘘のように、今はただ拒絶の意志を孕んだ墓標のように横たわっていた。
アルフは、隣のベッドで穏やかな寝息を立てるカレンを見つめた。A級ポーションの奇跡的な効力により、彼女を苛んでいた死の気配は消え失せている。その安らかな顔だけが、今のアルフにとって唯一の、そして絶対的な世界のすべてだった。
ふと視線を部屋の隅に向けると、卓上の小さなランプの下で、ピーター・ブレットが独り、机に向かっていた。
「迷い人」の綴る地図
ピーターはこれまで見せていた不遜な態度を微塵も感じさせず、ただ黙々と、手元の分厚いノートにペンを走らせている。
「……ピーター、あんたは何者なんだ?」
アルフの問いに、ピーターはペンを止めることなく、どこか遠くを思うような声で答えた。
「ただの迷い人さ。この世界の歪んだ地図を書き換えるために、あちこちを歩き回っているだけの、な」
アルフは静かに歩み寄り、その背後からノートを覗き込んだ。そこには、アルフがこれまでに見たどの地図よりも精緻な、この世界の広域図が描かれていた。そして、その余白を埋め尽くすように、角張った、それでいて流麗な、見たこともない奇妙な文字が整然と並んでいる。
それは、アルフたち異世界の住人には決して読み解くことのできない、異邦の言葉――**『日本語』**の記録であった。
その筆跡には、執念にも似た凄まじい熱量と、どこか祈るような切実さが宿っている。アルフには読めずとも、そこに刻まれた「重み」だけは、肌に刺さるように伝わってきた。
絶対的な暴力の必要性
ピーターは不意にペンを置き、椅子を引いてアルフに向き直った。その瞳には、ふざけた光などは一切ない。
「いいか、アルフ。お前が自分の『力』に振り回され、ふがいなさに打ちひしがれている間も、世界は一刻も休まずにお前たちを追い詰めていく。明日からは、その内に眠る悪魔の力を『ただ出す』だけの段階を卒業してもらう。それは『使いこなす』ための訓練だ」
ピーターの言葉は淡々としていたが、アルフの胸の奥底を冷たく射抜いた。
「カレンちゃんを連れて、この理不尽な世界を渡り歩くつもりなら……。お前自身が、誰にも、どんな法にも縛られない**『絶対的な暴力』**にならなきゃならないんだ。守るための力、なんて甘っちょろいもんじゃない。敵のすべてを沈黙させる力だ」
窓の外の、届かぬ空
ピーターはノートを閉じ、壊れ物を扱うような手つきで大切そうにリュックの奥深くへとしまった。そして、再び窓の外へと視線を向ける。
その眼差しは、目の前のエネアッドの惨状を見ているのではない。この世界のどこかにいるはずの――かつては死力を尽くして戦った敵でありながら、前世の日本で最愛の伴侶となった妻。そして、かつて災厄に飲まれ犠牲となったはずが、この世界で転生していることが分かった妹。
二人の影を、果てしない地平の先に追い求めているようだった。
「……今日はもう寝ろ、アルフ。明日からは、地獄の門が本格的に開くからな」
ピーターはそう短く告げると、ハルトを伴って静かに部屋を後にした。
アルフは暗がりの中、自分の手のひらをじっと見つめる。ピーターが背負っているものの正体は分からない。だが、あの男が見せる「静かな決意」の欠片でも手にしなければ、カレンを守り抜くことなど到底不可能だということを、アルフは痛感していた。




