56話:それが賢明
ピーターが放った『重力散歩』によって、隠れ家の中は静まり返っていた。床に叩きつけられたルビーナやマラカイトは、言葉通り指一本動かすことができない。
「……あーあ、結局冷めちゃったじゃん、マヨトースト。おじいさんが変なこと言うからさ」
ピーターは不満げに焦げたパンを放り出すと、聖剣を肩に担ぎ直した。その瞳からは先ほどの「奈落」のような冷気は消えていたが、ルビーナたちは恐怖で身をすくませたまま動けない。
「アルフ、お前の覚悟はさっき聞いた。……ハルト、移動だ。あっちの設備の方が、お菓子食べるのにもちょうどいいしな」
「……了解」
ハルトが音もなくアルフの肩に手を置く。歪む空間の中に、マラカイトの絶叫とルビーナの屈辱に満ちた呻き声が吸い込まれていった。
エネアッド中央医療施設の一室。ベッドの上で安静にしていたカレンの視界で、空間が唐突に爆ぜるように歪んだ。次の瞬間、目の前にピーター、ハルト、そしてアルフの三人が突如として姿を現す。
「……えっ!? お兄ちゃん、どこに行ってたの!?」
カレンは驚きに目を見開いた。彼女からすれば、三人が突然目の前から消え、数刻の後にまた唐突に戻ってきたように見えたのである。
「カレン、すまない、驚かせて。実はちょっと街の様子を……」
アルフが駆け寄り、事情を説明しようと口を開く。しかし、その言葉を遮るようにピーターの冷ややかな、それでいてどこかふざけたような声が響いた。
「いやあ、外はあいにくの土砂降り……じゃなくて、地獄絵図だったろ? アルフ」
ピーターはアズライトの聖剣を無造作に部屋の隅へ立てかけると、椅子に深く腰掛けた。
「カレンちゃん、お兄ちゃんを責めないであげてよ。彼には自分のしでかした『結果』ってやつを、そのマナコに焼き付けてもらう必要があったんだ。……まあ、お陰でお前ら二人は立派な指名手配犯。特にカレンちゃん、君は『王族献上品』なんていう最高級の肩書き付きだ。おめでとう、大人気だぜ?」
ピーターは皮肉げに唇を吊り上げ、アルフが街で見た「B級」と「特B級」の現実を突きつけた。
「いいか、今の街はお前たちの顔を拝もうと血眼になった『善意の味方』で溢れてる。一歩外に出れば即座に包囲、即座に終了。そんな場所に戻りたいなんて言わないよな?」
ピーターの言葉には、冷徹なまでの冷静さと、それを覆い隠すようなおどけた調子が混在していた。アルフは反論の言葉が見つからず、ただ沈黙する。カレンの命を救い、自分たちをこの安全な砦に留まらせているのは、紛れもなくこの得体の知れない男であった。
ピーターはそのまま、部屋の机に広げられた一冊のノートに目を落とした。そこには精緻に書き込まれた世界地図と、幾つもの地点を結ぶ複雑な線が引かれている。彼はアルフたちとの会話を切り上げると、その「探し物」を記した記録をなぞり始めた。
「ここに居るのが一番賢明だ。お前たちの望みも、俺の望みも……この不条理な世界を生き抜かなきゃ始まらないんだからな」




