3話 無力な成金、最初の戦い
「大丈夫だよ、カレン。俺が守ってやるから」
豪―――いや、アルフはそう言ったが、彼の心臓は激しく波打っていた。以前の自分ならば、億単位の金を叩きつけて、屈強なボディガードを何十人も雇い、この貧民街ごと買い取っていただろう。しかし、今の彼は、ガリガリに痩せた、か細い少年だ。
「お兄ちゃん、パン……」
カレンが、不安そうにアルフの袖を引っ張った。空腹は現実だ。昨夜から何も口にしていない。パンを買いに行かなければ、今日を生き延びることはできない。
アルフは深く息を吐き、昔の自分なら絶対に踏み込まなかったであろう、泥と埃に塗れた外界へと足を踏み出した。
貧民街は、無法地帯だった。
建物の壁には落書きが溢れ、そこら中にゴミが散乱している。すれ違う人々は、誰もが目を合わせず、警戒心を剥き出しにしている。昨日まで高級ペントハウスの最上階で優雅にワインを傾けていた豪にとって、地獄そのものだった。
「パン屋は、あっちだよ」
カレンが、怯えた声で細い路地を指さした。
アルフはカレンの手をしっかりと握り、人通りの少ない路地を選んで進んだ。しかし、パン屋の近くまで来たとき、彼らの行く手を遮る影があった。
「おや、こんな可愛い娘っ子を連れて、どこへ行くんだ?」
それは、見るからに質の悪い、大柄な男だった。男は下卑た笑みを浮かべ、カレンの小さな体を見つめる。その目つきは、まるで獲物を品定めする獣のようだった。
アルフの背中に、冷たい汗が伝う。かつての彼は、金で人を動かし、物理的な暴力とは無縁だった。しかし、今の彼は、自分の力だけで、妹を守らなければならない。
「俺たちに構うな。パンを買いに行くだけだ」
アルフは震える声を押し殺し、睨みつける。
「ほう? 偉そうに。お前らみたいな孤児は、すぐに売られていくのがお似合いだぜ」
男はそう言って、カレンの腕を掴もうと手を伸ばした。
その瞬間、アルフの脳裏に、リリアがオークションで怯えていた顔がフラッシュバックした。**もう二度と、大切なものを失いたくない。**あの時の誓いが、彼を動かした。
アルフは、考えるよりも早く、男の手に噛み付いた。
「ぐっ……!」
男は予想外の痛みに手を放し、アルフを睨みつけた。
「てめぇ、このクソガキが!」
男の拳が、アルフの顔めがけて振り下ろされる。アルフは反射的にカレンを押し倒し、その衝撃で地面に倒れ込んだ。拳は空を切ったが、その風圧だけでアルフは恐怖に震えた。
「お兄ちゃん!」
カレンの悲鳴が響く。男は再び拳を振りかぶるが、その時、路地の奥から、ボロを纏った老人が現れた。
「おい、そこまでにしておけ。このガキは、まだ使える」
老人は、男に金を握らせる。男は舌打ちをしながら、その金を受け取り、去って行った。
「助かった……のか?」
アルフは顔の泥を拭いながら、老人を見上げた。老人はアルフを鋭い目で見つめると、ボロボロのパンを二つ差し出した。
「お前は、強い目をしている。だが、力がない。この街では、目立つ奴から死んでいく。その娘を守りたいなら、パンなんかよりも、力を求めな」
老人の言葉は、かつて金で全てを解決してきた豪の耳に、重く響いた。彼は、今、この世界で生きていくための、最初の教訓を学んだのだった。
「……ありがとうございます」
アルフはパンを受け取り、カレンの手を引いて、崩れかけた家へと戻る。パンの味は、かつて口にした高級料理よりも、ずっと重く、そして命の味がした。




