19話 兄の旅立ちと、パンの重さ
その夜は、いつもより寒かった。
お兄ちゃん(アルフ)が、「明日、遠いところへ仕事に行く」と言ったからだ。
「成功すれば、カレンが二度とこの貧民街の汚いパンを食べなくて済むようになる」
お兄ちゃんの言葉は力強かったけれど、カレンの心臓はギュッと縮んだままだった。
私たちは、お兄ちゃんが拾ってきてくれる、硬くて、たまにカビ臭いパンを分け合って生きてきた。でも、お兄ちゃんが遠くへ行ってしまうことが、パンを食べられないことよりもずっと怖かった。
お兄ちゃんは、この数週間で変わってしまった。
前は熱を出してばかりで、まるで赤ちゃんのようだったのに、今は毎日外に出て、泥だらけになって帰ってくる。時々、ひどい顔をして「力が必要だ」と呟く。カレンには、お兄ちゃんが何をそんなに恐れているのか、よくわからなかった。
ただ、わかるのは、この貧民街が安全な場所ではない、ということだけ。
窓の外からは、酔っ払いの怒鳴り声や、物を叩き壊す音が聞こえてくる。カレンはすぐに布団の中に潜り込み、耳を塞いだ。
貧民街では、子どもは簡単に消えてしまう。病気で、事故で、そして、誰かに連れて行かれてしまうからだ。
カレンは、お兄ちゃんがいない間に、もし自分だけが残されたらどうなるだろう、と考えてしまう。あのパン屋の優しいおばさんも、カレンたちを時々手伝ってくれるけど、誰もこの街の闇からは守ってくれない。この街には、お兄ちゃんが言っていた「力」がなければ、生きていけないのだ。
お兄ちゃんがそっと、カレンの額に口づけをした。
「カレン。必ず帰ってくる。約束だ」
その声は優しかったけれど、カレンの胸に沈んだ不安は消えなかった。カレンは知っている。遠い仕事に行くと言って、二度と帰ってこなかった人を、この街で何人も見てきたからだ。
お兄ちゃんは、カレンのために、残りの銀貨数枚と、数日分のパンを隠し場所に置いた。そのパンは、今までで一番大きくて、綺麗だった。
カレンは、そのパンを抱きしめたまま、眠りにつこうとした。
(お兄ちゃんが帰ってきてくれたら、このパンは半分こにして、二人で食べよう)
それが、カレンの唯一の願いだった。
しかし、お兄ちゃんが家を出ていく、その扉が閉まる「カチリ」という小さな音が、カレンの耳には、もう二度と会えない別れの音のように、恐ろしく響いたのだった。




