第116話:小規模干渉
ニコがアズライトたちの元にいる方が、安全なのではないか。そんな甘い迷いは、アルフの脳内から完全に抹消されていた。今の彼を突き動かしているのは、大切な「所有物」を奪われたことへの、静かで、しかし苛烈な怒りだ。
「……安全だと? 笑わせるな。あいつらは、俺たちが手に入れた価値を横領したんだ。利息をつけて返させる」
アルフは冷徹な眼差しで、歪みが停滞する路地を見据えた。彼の影は、主の怒りに呼応するように禍々しく膨れ上がり、周囲の石畳を侵食している。
1. 記憶の「空隙」を辿る
アルフは、実の妹であるカレンの手を引きながら、街の広場へと戻った。そこには、マラカイトの解釈拡張によって生じた「記憶の欠落」が、見えない穴のようにあちこちに口を開けている。
「シエナ、カレン。住人たちの動きを注視しろ。彼らがふと足を止め、自分が何をしようとしていたか忘れる場所……そこが、あいつらが通った『因果の通り道』だ」
広場の隅で、一人の男が立ち尽くしていた。彼は手にした籠を見つめ、数秒間、魂が抜けたような顔をした後、激しく首を振って歩き出す。
「今だ。そこにはニコが落とした『存在の残滓』が、定義の書き換えによって無理やり消された痕跡がある」
アルフは男が立ち止まった場所に自分の影を叩き込んだ。影は空間の裏側に潜り込み、消されたはずの「パン屋の娘の足跡」を、強制的に現実へと再記帳していく。
2. 管理者の「注意散漫」
アズライトとマラカイトは今、ニコを「世界の固定点」として定着させる作業に全神経を注いでいる。それは、膨大な計算負荷を伴う危険な賭けだ。
「あいつらは今、ニコという重荷を背負って泥沼を歩いているようなものだ。周囲を警戒する余裕など、今の奴らにはない」
アルフは影を通じて、遠くの廃墟から漏れ出す魔力の拍動を感知した。それは一定の周期で、苦しげに震えている。
「アズライト。お前がその身を削ってニコを繋ぎ止めている間、俺たちがその『足元』を少しずつ切り崩していることに、いつ気付くかな」
アルフの策略は、正面突破ではない。街の局所的な歪みに小さな干渉を繰り返し、ニコと世界を結んでいた「パン屋の娘」としての古い因果を、一本ずつ、しかし確実に手繰り寄せ始めた。
3. 奪還への「小規模介入」
「お兄ちゃん、あっちの影が少しだけ明るくなってる。ニコちゃんの匂いがするよ」
カレンが、歪んだ路地の先を指差した。彼女の「正常な影」が、不自然に色が混ざり合う空間の中で、一本の細い光の筋のように道を指し示している。
「いいだろう。シエナ、影に潜め。カレン、光の出力を最小限に絞れ。まずはあいつらの足元にある『定義の杭』を、外側から少しずつ削り取る」
アルフは、壊れた未来視の中から「ニコが自分たちを思い出す」という極小の可能性を探り当て、そこに自分の影を流し込んだ。




