第112話:追跡不能
地図を広げたアルフの指が、刻一刻と震えていた。かつての商社マン時代、どんな複雑な物流ルートも一瞬で査定した彼の脳が、今、決定的な「情報の欠損」に悲鳴を上げている。
1. 地図に記されない空白
「……追えない。座標が消失している」
アルフが吐き捨てるように呟いた。地図上にはヴェルトの街並みが精巧に描かれているが、アズライトたちが消えた先の路地から、因果の糸がぷっつりと断たれている。
「物理的な足取りがないだけじゃない。世界の台帳そのものから、彼らが『移動した』という履歴が抹消されているんだ。あいつらは場所を移動したんじゃない。この場から自分たちの定義を削除し、別の場所に再定義した。プロセスを飛ばして『結果』だけを書き換える奴らを、道筋を辿って追うことは不可能だ」
アルフの未来視は、ノイズに埋もれて機能していない。未来が一つに定まらず、無数の「起きていないはずの現在」が網膜を焼き、彼の判断力を削り取っていく。
2. 綻びゆく連携
「……アルフ、さっきの言葉、もう一度言って」
シエナが、漆黒の剣の柄を握りしめたまま、困惑した表情で問いかけた。彼女の「存在の希薄化」は、皮肉にもマラカイトの解釈拡張と共鳴し、彼女自身の自己認識を危うくさせている。
「さっき、広場を離れる時に『カレンが先に行った』と言ったわよね? でも、私の中ではカレンはずっとあなたの隣にいた。……ねえ、あの時、白装束を最後に斬ったのは誰だった?」
「……俺の影だ。いや、待て。シエナ、お前の剣だったはずだ。……違うな、カレンの光が……」
アルフの言葉が止まる。
三人の間で、つい数十分前の戦闘記憶がバラバラに食い違っていた。誰がどこで何を成したかという「共有資産」としての記憶が、マラカイトの残した停滞の余波によって、個々人の脳内で勝手に書き換えられ、価値を失っていく。
「お兄ちゃん、私の影が……二つに見える時があるの」
カレンが怯えたように自分の足元を見つめる。正常であるはずの彼女の影さえも、時折、別の時間軸の彼女を映し出すかのようにブレを始めていた。連携は不安定になり、互いの背中を預けるという信頼の前提条件が崩壊しかけていた。
3. 認識の時限爆弾
「……これが奴らの狙いだ。救出に向かうための『意志の連続性』を削り、俺たちをこの場に停滞させる」
アルフは強引に地図を畳んだ。
追跡不能。記憶の混濁。不安定な連携。
投資家として言えば、これは「完全な破産状態」だ。しかし、彼はまだその場を動こうとするカレンの手を離さない。
「いいか、シエナ。カレン。俺たちの記憶がどれほどズレようと、ニコを失ったという『損失の事実』だけは共有しろ。因果が繋がらないなら、無理やり新しい取引をこじ開ける。あいつらが世界の定義を書き換えるなら、俺はこの歪んだ未来すべてを買い叩いて、正解のルートを力ずくで引き寄せるだけだ」
アルフの歪んだ影が、暗い怒りを伴って床を叩く。
しかし、その表情にはかつてない焦燥が滲んでいた。もし、ニコの「固定点化」が完了すれば、彼らの中に残された彼女への想いさえも、最初から存在しなかった「不渡り手形」として完全に消滅してしまうからだ。




