第110話:アズライトの“制限”が見え始める
アルフは拠点の床に、幾つかの「概念の図」を書き殴っていた。影の魔力で描かれたその線は、時折ノイズのように震え、実体と虚像の間を行き来している。
シエナとカレンは、その歪な図面を不安げに見守っていた。自分たちの記憶が摩耗し、ニコという存在が「静止画」のように固まり始めていることに、耐え難い恐怖を感じていたからだ。
台帳の維持コスト
「……やはりそうだ。あの力は万能じゃない。あまりに維持コストが高すぎる」
アルフが独り言のように呟く。彼の壊れた未来視は、今、広場に残された「負の遺産」の残骸を解析していた。
「シエナ、カレン。マラカイトが行った『解釈の拡張』は、この世界の根本的なルールを書き換える行為だ。だが、そんな不渡り手形のような状態を、世界がいつまでも許容するはずがない」
アルフは図の中央にある一点を指差した。
「一度に広げすぎた解釈は、時間の経過と共に霧散しようとする。それをこの世界に留めておくには、膨大なエネルギーか、あるいは……絶対的な固定点が必要になるんだ」
「固定点……? それって、目印みたいなもの?」
カレンの問いに、アルフは冷徹に首を振った。
「違う。それは、全ての歪みを一身に背負い、世界の理と『定義の空白』を繋ぎ止めるための、生きた杭だ。そして今、あいつらがその杭に選んでいるのが……ニコだ」
救出ではなく、修復
アルフの瞳に、これまでの「奪還」という目的を根底から覆すような、鋭い投資家としての色が宿った。
「いいか、状況が変わった。俺たちがやるべきは、単なる連れ戻し(リカバリー)じゃない」
「どういうことよ、アルフ。ニコを助け出す以外に、何があるっていうの」
「ニコが固定点にされる前に、彼女と世界との接続を取り戻させる。 これが最優先事項だ。今のニコは、アズライトたちによって、この世界の因果の流れから強引に切り離されている」
アルフは、自分の足元で今にも消え入りそうな影を凝視した。
「このまま放置すれば、ニコの存在定義は完全に固定される。彼女は『存在しているのに、誰とも、何とも関わりを持てない』という、究極の孤立存在へと変質してしまうんだ。そうなれば、俺たちが彼女の隣に立っていたとしても、彼女を認識することも、触れることもできなくなる」
それは、死よりも残酷な「帳簿からの隔離」だった。
姿なき追跡
アルフは立ち上がり、歪んだ影をコートのように纏った。
「あいつらの姿は見えなくていい。この街の至る所に、解釈の歪みが、記憶の欠落という名の『痕跡』が落ちているはずだ。それこそが、あいつらが無理な運用を続けている証拠だ」
広場から続く道。そこかしこに、不自然に整えられた石畳や、住人たちの「数分間の記憶の空白」が点在しているだろう。アズライトたちが歩けば歩くほど、その周囲の世界は「定義の破綻」を隠すために無理な修正を強いられ、綻びを生んでいく。




