第109話:追えない理由が判明
アルフは机の上に広げた地図を睨みつけていた。地図には交易都市ヴェルトの全容が描かれているが、彼の手元にあるペンは一向に進まない。追跡術の基本である「痕跡の逆算」が、根本から破綻していた。
足跡のない消失
「……足取りが、どこにも存在しない」
アルフの掠れた声に、シエナが眉を潜める。
「どういうこと? あの少女が手をかざして、一瞬で消えた。どこかの路地に転移したとか、そういう類のものではないの?」
「いや。通常の転移魔術なら、空間を折り畳んだ際の残留魔力や、出発点と到着点を繋ぐ因果の糸が残る。だが、あいつらにはそれがない。出発したという事実そのものが曖昧なんだ。俺たちの脳内には『あいつらがいた』という過去と、『もういない』という結果だけが、断絶した状態で放り出されている」
アルフはペンを置き、冷徹な結論を口にした。
「移動していない者は、追跡できない。あいつらは場所を移動したんじゃない。この場から自分たちの存在定義を削除し、別の場所に再定義したんだ。プロセスを飛ばして結果だけを書き換える奴らを、道筋を辿って追いかけるなんて不可能なんだよ」
第二の被害:記憶の不一致
アルフが分析を続ける傍らで、シエナは自分の記憶を必死に整理していた。だが、整理すればするほど、不気味な違和感が膨らんでいく。
「アルフ、一つ確認させて。さっきの広場での戦闘、白装束の波を最初に防いだのは誰だった?」
「カレンの光だ。その直後に、俺が未来位置を影で抑えた」
「……違うわ。私が先に斬り込んで、その隙にカレンが光を放ったはずよ」
二人の言葉が食い違った瞬間、部屋の空気が凍りついた。カレンもおずおずと手を挙げる。
「あの……私の中では、アルフさんの影が先に出て、その後にシエナさんが動いたことになっています。それに、アズライトさんが吐血したタイミングも、みんなバラバラなんです……」
三人の間で、同じ出来事の順序が一致しない。
昨日今日のことではない。つい数十分前の、命を懸けた戦いの記憶が、個々人で異なるパズルの断片のようにズレ始めている。
戦場そのものの汚染
シエナが、戦慄を覚えたように自分の手を見つめた。
「ニコだけじゃない……。私たちも、削られているのね」
「ああ。マラカイトが去り際、あの場に残していったのは解釈を拡張した余波だ。戦場そのものの意味が広がりすぎたせいで、俺たちが何を経験したかという定義さえもが、今もなお崩壊し続けている」
かつて田中豪として数々の商談を成立させてきたアルフにとっても、これは未知の損失だった。
共有すべき情報の基盤が揺らいでいる以上、チームとしての連携も、目標の共有も、砂の城のように脆くなっていく。
「あいつらは去った後も、俺たちの時間を食い荒らし続けている。今の俺たちにとって、アズライトたちが『どこへ行ったか』を考えること自体が、毒を飲むようなものだ」
アルフの歪んだ影が、床を這うように蠢いた。
記憶が混濁し、足跡すら存在しない。
この絶望的な状況下で、彼は壊れた未来視のノイズを必死に手繰り寄せ、一つの「穴」を探していた。
「……待て。すべてが曖昧なら、逆にあいつらが『定義し忘れたもの』がどこかにあるはずだ」




