第108話:奪われた「記憶の連続性」
拠点の中、アルフは激しい頭痛に耐えながら、机の上に広げた白紙に「ニコ」という名前を書きつけた。しかし、その名前を取り巻く記憶は、まるで虫食いのように無残な空白だらけだった。
「……思い出そうとすると、思考が滑る。シエナ、お前はどうだ」
アルフの問いに、シエナは剣の柄を握りしめたまま、苦渋に満ちた表情で首を振った。
「ダメよ。ニコが焼いてくれたパンを口にした感触は残っているのに、その『味』に思考が届こうとした瞬間に、意識が真っ白になるの。まるで、そこだけ情報のアクセスを遮断されているみたいに」
カレンもまた、潤んだ瞳で自分の手を見つめていた。
「会話が繋がらないんです。ニコちゃんと楽しくお喋りしていたはずなのに、その前後の文脈が消えていて、ただ彼女がそこに立っていたという『点』の記録しか残っていない……」
短すぎる因果
アルフはペンを走らせ、図解を試みた。
通常、記憶とは長い鎖のようなものだ。出会いがあり、共に過ごし、感情が積み重なり、今の関係性に至る。だが、今の彼らの中にあるニコに関する記憶は、一つ一つのエピソードが極端に短く、ぶつ切りになっていた。
「因果が短すぎる。ニコに関する出来事だけが、前後との脈絡を失った独立したデータとして放り出されているんだ。彼女の存在自体が消されたわけじゃない。彼女がこの世界と接続していた『時間』そのものが、何らかの力で削り取られている」
アルフの鋭い分析に、ネコさんが煙管を置いて身を乗り出した。
「時間そのものを削る、か。道理で、さっきまでわしらの意識からも抜け落ちていたわけじゃな」
資産としての時間の回収
アルフは田中豪としての冷徹な視点を研ぎ澄ませ、この異常事態の本質を査定した。
「奴らはニコを連れ去ったんじゃない。俺たちがニコと共に過ごし、構築してきた『時間の価値』を、その場で一括回収していったんだ」
アルフの言葉に、場が凍りついた。
「回収……? どういう意味よ、アルフ」
「シエナ、関係性というのは時間という投資によって築かれる資産だ。マラカイトの能力は、場所を移動させるような単純な物理干渉じゃない。対象者の『関係性の履歴』を直接書き換え、俺たちとニコの間にあったはずの絆という利子を、根こそぎ奪い去る力だ」
マラカイトが最後に手をかざした瞬間。
彼女は、アルフたちがニコと出会ってから今日に至るまでの「共有した時間の記録」に介入した。その結果、アルフたちにとってニコは「よく知らない、ただそこにいた存在」へと格下げされ、認識の優先順位を最低レベルにまで落とされたのだ。
書き換えられた台帳
「移動した瞬間に俺たちの前から消えたように見えたのも、あいつが『最初からそこにいなかった』という解釈を、俺たちの脳という台帳に無理やり記帳したからだ。物理法則を超えた、履歴の改ざん……」
アルフの影が、怒りと共に激しく波打つ。
「あいつらは、ニコという個体だけでなく、俺たちが彼女と過ごした時間という財産まで盗んでいったんだ。これは、俺のプライドにかけた最悪の背任行為だ」
アルフは歪んだ影の杭を強く握り直した。
記憶が不完全であれば、ニコがどこへ連れて行かれたのか、その手がかりすらも書き換えられている可能性がある。




