瘴魔人
中央棟の屋上から轟いたアルファガの咆哮を耳にした警備兵達は、大多数はその場で泡を噴きながら失神していった。
より上等な装備を支給されている階級の高い者や精神力の優れた者は、かろうじて意識を保ったが、ひどい酩酊状態に陥ってろくに歩く事も出来ない状態に陥る。
伝説に於いて竜の咆哮はそれ自体に聞く者の精神をかき乱し、時には発狂させて、ひどい場合には即死させる効果を持つという。
現存する最古の竜であるアルファガともなると、そうした精神に作用する効果の強弱を調整することもでき、今回はレベンドラ達の仕事を奪わないようにする為と、収容されている犠牲者に悪影響を及ぼさないようかなり弱めにしている。
それでも心の弱い者達には効果覿面だったようだ。あまりに効果が出過ぎて、アルファガは再び困惑に襲われる羽目になった。
アルファガの咆哮を皮切りに、ただでさえ小型とはいえ無数の竜と人間離れした速さと怪力で暴れ回るレベンドラを相手に、混乱していた警備兵達はそこから一気に恐慌状態へと陥る。
厳重な警備が敷かれているとはいえ、襲い来る敵もなく脱走しようとする者だけに気を配ればよい環境が長く続いた結果、警備兵達のみならずその指揮を執る者達にしても、じわじわと怠けに浸食されて、気が緩んでしまっていた。
その場を放棄して我先にと唯一の出入り口である正門を目指し、一斉に逃げ出し始める。
それを咎める者も少なからずいたが、屋上から周囲を睥睨するアルファガの威容や、飛び回る分身竜の姿を見れば理性を振り切って、その場から駆け出す。
アルファガとレベンドラによる襲撃から、ものの一時間と経たずにナラカミ収容所はその機能を停止する寸前だった。
その光景を魔法の絨毯の上から、アネモネは余さず見ていた。
一番の注目は当然、主君と仰ぎ、彼女の夢の成就を大きく担うアルファガだが、レベンドラについても詳細な戦闘能力を知るべく、注視している。
収容所内部に侵入したレベンドラを、アネモネの色違いの瞳が正確に見ている。左の義眼が赤く染まった満月のように不吉に輝いていた。
天然の赤水晶から削り出し、特殊な加工法で作り上げられた義眼は、アネモネのエーテルをより強く、純度の高い者へと変えてくれる。
そうしてアネモネは左眼に透視と千里眼の魔力を付与し、遮蔽物を透過して同志と呼ぶべき相手をまるで仇敵のように観察している。アネモネにとってアルファガに強い忠誠心を抱くレベンドラは、場合によっては敵対する可能性のある相手だった。
「アルファガ様が分身を作り出したのにも驚いたけれど、その分身や瘴魔兵をものとものしない貴女にも驚きよ、レベンドラ。作り替えられる以前から、相当な使い手だったよう。
これは嬉しい誤算? それとも未来の障害と捉えるべきか悩ましいわ。純粋にアルファガ様の為に戦える貴女が少し羨ましいわね」
決してレベンドラには届かない心中の吐露を終えて、アネモネは焦点をレベンドラからナラカミ収容所全体へと向ける。
少し前からナラカミ収容所の状況を確認しようとする、魔法や特殊な道具による遠隔視と通信魔法の類を、『夢霧暗眩』で遮断する反応がある。
『夢霧暗眩』には遮断と同時に相手に悪夢を見せる効果もある。それなり以上の腕前が無ければ、今頃は両手の指よりも多くの術者が悪夢に襲われているだろう。
「それにしても呆気ない。このまま終わるのならまさに蹂躙と呼ぶべきね。アルファガ様の御力は私の思っていた以上。でも楽観視は出来ないわね。国を築くのなら支配する民も必要だし、治める領土も……」
まだ一応は戦闘中であるというのに、既に建国の未来について考えを巡らせる辺り、アネモネはすっかり勝利したつもりになっていた。
眼下の光景を見ればそう判断するのも当然ではあったが、それは少しばかりその判断はまだ早かった。ナラカミ収容所側にはまだ切れる手札が存在したのだから。
地上にある収容所のほとんどがレベンドラ達に制圧され、警備兵達の大部分が正門から取るものも取らずに逃げ出している最中、瘴気の実験場と被験者達を収容している、いわば真の収容施設でも逃走の準備は進められていた。
収容所の地下を流れる水脈に用意された脱出船に、収容所の所長バーゼフは乗り込もうとしていた。白みがかった金髪を丁寧に撫でつけた、怜悧な印象を受ける優男だ。皺一つない軍用コートに身を包み、軍帽もピカピカに磨かれている。
「シンジェラが戻らなかった時点で、撤収の用意を進めて正解だったか」
見た目の印象に相応しい冬の風のように冷たい声だった。感情はなにも籠っていないように聞こえる。かつて収容されたレベンドラを実験の果てに瘴魔人シンジェラへと作り替え、アルファガを討伐する為に送り込んだのは、このナラカミ収容所だった。
バーゼフはあくまで収容所の管理者であり、瘴気実験の責任者ではなかったが、実験の詳細を把握できる立場にある。
シンジェラからの信号が途絶えた時点で、実験に関わっていた者達は地下施設の破棄を決定し、重要な資料と機材、人員は早々に撤退している。被験者達は連れて行く価値はないとして、放置されている。
バーゼフはぎりぎりまでアルファガ達の能力を観測してから、脱出するよう指示を受けていた。周囲の似たような軍服に身を固めた階級の高い者達も、バーゼフと同じく貧乏くじを引かされた者達である。
「どうせ放棄するのだ。瘴魔人シンラースとシンラストを出せ。瘴魔獣も瘴魔兵も残りは全て戦わせろ。それでようやく足止めになる」
惜しむことを知らないバーゼフの指示に、近くにいた側近の一人が頷き返し、きびきびとした動作でその場を離れる。
素養のある人間をコアにした瘴魔人シンシリーズ。材料となる人間の調達だけでも苦労するが、作成に必要な瘴気もソードレイなどの通常の瘴魔兵五百体分を必要とする。
性能は折り紙付きだが現段階では製造コストの高さがネックだ。そんなシンシリーズを二体も投入するのは、不具合の多い初期の個体であり、寿命が近く廃棄する予定だったからだ。
「伝説の怪物を相手に人間の業が作り出した怪物がどこまで通用するのか、興味は尽きんが潔く退くとするか。シンラースとシンラストを退けたなら、また見る機会もあるか、竜よ?」
分厚い岩盤に阻まれた頭上を見上げて呟くバーゼフは、自分や周囲の部下達、そして脱出用の船にもアルファガが『夢霧暗眩』と同時にばら撒いた追跡用の思念が付着しているのを知らない。
アルファガが瘴気実験の黒幕を暴き立てる為に、わざと自分達を見逃しているのだと、当のバーゼフは夢にも思っていなかった。
地下水脈からの脱出が始まったころ、収容所内の制圧を終えたレベンドラは、他の分身竜達と合流して、地下二階の倉庫の一角に秘匿されていた階段を見つけ、その周囲で待機していた。
アルファガからの指示に従い、突入するか別の方策を探るのか、妄信する主君に仰ごうとしていた。
これまで遭遇した警備兵達はほとんどが脱兎の勢いで逃げ出したが、恐怖を知らぬ瘴魔兵達は津波のように押し寄せてきて、ここを見つけるまでにレベンドラだけでも五十体以上を葬っている。
「よくもあれだけの数を揃えたもの。瘴気は世界を穢す猛毒だと、誰もが知っている筈だ。それなのにあんな真似をする奴らか。どんな恥知らずだ?」
レベンドラは兜の奥で抑えきれぬ激情を言葉に変えて吐き出していた。地下施設に近付くにつれて、時折、脳裏に過去の記憶が蘇り、自分にとってこの場が極めて屈辱的で忌々しい場所なのだと、徐々に実感を伴ってきている。
部下や家族を人質に取られる形で国を追われ、瘴気に侵されたと理由を作られてこの収容所に拉致されて、そして屈辱と苦痛が延々と続く日々がレベンドラを待っていた。
「…………」
言葉にすることも出来ない怒りを心身に漲らせ、エーテルを大きく揺らがせるレベンドラを周囲の分身竜達が心配そうに見ている。それに気付けないほど、レベンドラは今にも暴れ出しそうな自分を抑え込むのに精いっぱいだった。
そんなレベンドラの意識を強く動かすのは、当然、尊厳と生命、魂の救い主であるアルファガを於いて他にない。
『レベンドラ、聞こえているな?』
アルファガの声だ。ただし鼓膜を震わせるのではなく、直接、頭の中に響いてくる。遠い場所にいる相手と会話する方法は、魔法にしろ道具にしろいくつか存在している。アルファガ様ならこの程度、造作もないだろう、とレベンドラは素直に受け入れた。
「はい。この上なく明瞭に聞こえております。我が君」
『お前にも分身達にも被害が無くてなによりだ。レベンドラ、先に地下に突入して犠牲者達を救出しろ。
瘴魔兵とそれより少し強いエーテルを持った奴らが、お前達を待ち受けている。油断さえしなければ、いや、油断してもお前なら大丈夫だろうが、気を付けて行け』
「承知いたしました。アルファガ様は……」
レベンドラは言い切る前に言葉を噤んだ。外に強いエーテルを感知したのだ。アルファガには及ばないまでも、これまで葬ってきた瘴魔兵とは桁違いの強さである。
「まさか、私と同じっ」
『そういうわけだ。だが元々、俺が相手をする予定だっただろう? だから気にするな。俺の心配などよりも今も苦しんでいる犠牲者達の救出に専念しろ。いずれ、俺の臣下となり民となり、そしてお前の同輩となるのだから丁重にな?』




