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罵り合っているようだった男女の声が悲鳴に変わり、耳が痛くなるような甲高いブレーキの音……強く抱き込まれた身体。
『真奈美っ……!』
血を吐くような絶叫は、自分の名を呼んでいた。
嫌だっ、この先は見たくない!
硬く瞳を閉じる……ただ、覚悟した痛みはいつまで経ってもやって来なかった。
「……あー、またコート買わないとな」
そんな中、耳に届いた兄の声……慌てて目を開け、上体を起こす。目の前には、崩れ落ちた壁画の残骸だろう粉で薄っすら灰色に染まったコートを手でパンパンと叩いている隼人の姿があった。
「お前、今度からもっとよく考えて行動しろ」
「痛っ!」
呆けた表情で見上げていると頬を加減なく抓られ、走った痛みに声を上げる。
「……生きてる」
自分の傍らには、同じように呆然と座り込んでいる剣太郎がいた。
辺りを見回すと、ほんの数十センチ後ろに、途方もない半径で抉れた地表がある。ついさっきまで自分達が閉じ込められていた場所だと言うことはすぐに察した。
ただそこは、まるで遥か昔からそのようだったと言うように、真っ暗に口を開けた穴は深く、どうにも底が知れなかった。
「俺がいたことに感謝しろ、お前ら」
「……でも、どうやって?」
吸い込まれそうな深い穴に縫い付けられたようだった目を何とか引き剥がして隼人に向けながら、真奈美は着衣が多少粉だらけになった程度でほぼ無傷である自分達に動揺を隠せない。
「触診で調べた感じでは、壁自体はそんなに厚くなかった……相当古い物だったしな。お前が穴開けた辺りが一番脆くなってたから、お前ら抱えて体当たりして見事抜け出した訳だ」
だから、感謝しろ! と、隼人は腰に手を当ててフンっと鼻を鳴らした。
「体当たりって、身体は大丈夫なの?」
「俺の肉襦袢を甘く見るな、この程度で怪我するほどヤワに出来てないわい」
「良かったーっ……有難う、隼人! 隼人が太ってたの、こーゆー時の為だったんだね! もういいよ、無理して太んなくて」
「お前っ、助けてもらっといて嫌味か! ……っつーか、呼び捨てすんなっつってるだろーが! そして、抱きつくな!」
飛び付いて行った真奈美の頭は隼人にはたかれる……そんな変わらない遣り取りに、身体からようやく強張りが取れて行った。
そして、人心地ついたところで自分達を取り巻く環境を見回す……さきほどまでの霧は晴れていたが、そこは背の高い木々が鬱蒼と生い茂る森の中、頭上から届く日の光はそれほど多くない。
「……ここ、何処なんやろ」
視界の隅で、剣太郎が口を開く。
「分からん……ただ、赤道には近そうだな」
次に、隼人がそう言った。
「何で?」
「正確な時間は分からないがまだ朝になるには早過ぎるし、第一暑過ぎる」
結局払うのを諦めたらしくコートを脱ぎ捨た隼人は、腕時計を見ながら小さく舌打ちをする。真奈美も同じように自分の腕時計を確認すると、買ったばかりのそれは何故か針が止まっていた。
そして、視界を遮断されていたさきほどは感じられなかったむっとするような陽気に気が付いた。一月下旬のこの時期に……日本全土を大寒波が襲い、この冬一番の冷え込みだと告げていた朝のニュース映像がフラッシュバックする。
「……ホンマに、日本やないんやなぁ」
「さっきからそう言ってるだろ……それと、あれ見てみろ」
彼の指差す方向を仰ぎ見ると、木々の間から先の尖った屋根のようなもの数本突き出ているのが見えた。今自分達がいる場所からどれくらい離れた場所にあるのかは見当つかないが、かなりの規模であるらしい。
「……瓦じゃないね、当然だけど」
「石だろ、フランスのシャンティイ城の屋根に似てるな」
「フランスっ?」
マジでっ、パスポート持ってへんし! ……剣太郎が焦ったように何処かずれたことを叫ぶ。
「赤道に近い場所だと言っただろ。時間は合うかもしれんが、寒さはそんなに変わらない筈だ」
「そっかぁ……、……ん?」
赤道付近で中世ヨーロッパ風の城のある場所……考えを巡らせていた真奈美の耳に、小さな地響きのような音が届く。
「何か来るぞ……」
隼人も気付いたようで、そう言った。音は彼らが視線を向けている方向から、明らかにこちらに向かって来ていた。
「何が来るの……?」
「……俺、前にバラエティ番組のロケで牧場行った時、似たよーな音聞いたことある」
嘘やろー……剣太郎が引き攣った笑みを浮かべた。
「牧場か……多分、お前の考えてるヤツで間違いないだろうな」
苦虫を噛み潰したような顔で頷く隼人。
「何かって、動物なの? ……えっ? えっ? ええぇっ……うっそおぉっ!」
二人の視線の先……鬱蒼とした木々の向こうから見え始めた土埃に目を凝らしていた真奈美は、徐々に大きくなるその『何か』を確認して愕然とする。
土煙を上げて三人の前に停止したのは、まるでファンタジー映画のワンシーンを切り取ったような騎乗の集団だった。
十数人いる彼らは総じて細かな装飾の施された馬具を付けた馬に乗っており、彫りの深いアングロ・サクソン系の容貌、ただ色素は金髪、銀髪に赤毛、青や緑の瞳、肌の色も様々で整合性はなく、人種の特定は出来ない。大概の者はなめし革を重ねて作ったような鎧姿で、腰には剣も提げていることから兵士なのだろうと思われる。彼らから守られるように一番後ろにいる二人の一方は、四十代ぐらいの何とも穏やかな物腰の男で暗緑色の糸で元素記号のような刺繍(それは崩壊したモザイク画にとてもよく似ていた)の施された薄緑色の長いローブのような物を着ており、歩行の補助の為と言うよりもまるで魔法使いのそれのような杖をその背に差していた。
そして、もう一方の金髪碧眼の青年は他の者達と同じような革製のシンプルな服を身に付けているが、洗練された整った容貌とまとう空気感から素人目にも人の上に立つ者であることが知れた。
『カイ様、どうやらこの者達は事情を知っているようですね』
『ああ……しかし、時の塔が崩れるとはな』
そして、彼らの口から飛び出した言葉は三人には全く馴染みのないものだった。
「……弁償とか言い出すんじゃないだろうな」
彼らが自分達の後ろを覗き込んでいる様子から、隼人もさすがに拙いな、と言うような表情を浮かべる。
『何とも面妖な格好をっ……陛下は決して前に出られませんように!』
兵士の一人が鋭い声を発する。
「分かった! ここって何かのテーマパークなんだよ。お城だってあるし、馬なんか乗ってて、今は歓迎パレードか何かのイベントの最中でっ……」
彼らの口元をずっと見つめていた真奈美だったが、ポンっと手を叩いて言った。ただ、自分でも話に無理があるのは薄々感じているようで、声がやや上擦っている。
「ないないないないっ! 歓迎はないっ、めっちゃメンチ切られてるやん!」
ブンブンと頭を振る剣太郎の言う通り、騎乗から降り注ぐ視線には驚き、疑念、困惑と言った感情がない交ぜで……どう贔屓目に見ても友好的には感じられなかった。
『よりによって、隊長が不在の時にっ……』
『何とも粗野で奇怪な言語っ……とても友好的とは思えません』
剣太郎の方を気味悪そうに見つめながら、また一人の兵士が言った。
「英語……じゃないよね、一体何語かな」
「俺らが相手に感じてるのと同じだろ……『こいつら胡散臭い』って」
何を話し合っているんだろう、と呟いた真奈美に、隼人は彼ら一人一人から決して視線を外さずに言った。
「ここはちょっとでも心証良ぉする為に、俺がいっちょ一発ギャグをっ……「「絶対にやめとけ!」」
何に発奮されたのか芸人根性を発揮しようと前に出ようとする剣太郎を、二人は慌てて取り押さえる。
『これより先に近付くな!』
三人の遣り取りに過剰反応した先頭の兵士が、訓練された素早い造作で腰の剣を抜く。お互いの間には一メートル程度の距離しかなく、風圧で剣太郎の前髪がフワリと揺れた。
「うわぁっ……!」
鼻先に突きつけられた切っ先に、彼はその場に尻餅をつく。顔は完全に青褪めていた……目の前にあるのは真剣なのだ。