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深い霧が垂れ込めたような真っ白な空間の中、年齢も容姿も三者三様の男女が額を寄せ合うようにして立ち尽くしていた。ただ一つの共通点は、その容貌からして同じ日本人であるらしいと言うこと。
「えー……とりあえず、自己紹介するか」
三人の内、一番の年長者らしいスーツ姿の男が最初に口を開く。
「さんせー」
紫色の瞳をした女も右手を挙げて同意する。
「右に同じや」
残りの男も、関西弁で答えながら頷いた。
「じゃあ、俺から。折原隼人、三十五歳。建築家……んで、こいつの兄貴」
大柄だがややぽっちゃり体型の男は、左隣を示して簡単に自己紹介をした。
「次、私。折原真奈美、二十五歳。事情あってこんなカラコンしてるけど至って普通のOL。香川で、この兄と二人暮らし」
軽く会釈をした真奈美と言うらしい彼女は、隼人の言葉を補うように少し突っ込んだ自己紹介をした。
「えっ、そっち兄妹なん? 何かズルっ……俺は太田剣太郎、二十三歳。どーせ知らんやろーけど、大阪で芸人やってる」
綿毛のようにフワフワした金髪に派手な豹柄ジャケットと言う典型的な関西人スタイルの剣太郎は、何処か言い出し辛そうにその身分を明かす。
「あ、フルテンションの? 似てるなぁって思ってたけど、やっぱ本人だったんだ」
「何で知ってんのっ?」
真奈美の言葉に、剣太郎は酷く驚いたようだった。
「コイツ、筋金入りのお笑いマニアなんだよ。そう言や俺も見たことあるわー、『五時過ぎのおっさん』ってネタ」
「うん、ライブにも行ったことあるよー。シュージくんも元気……って、ええっ?」
相方の名前を聞いた途端、極限まで見開いた剣太郎の目が徐々に潤み、大粒の涙を流し始めた。成人男性に目の前で泣かれるなんてそうあるものではなく、真奈美はギョッとする。
「困ったなー、私達が苛めたみたいじゃん……はい」
「ごめっ……」
鞄からハンカチを取り出して渡すと、剣太郎は更にオイオイと泣き始めてしまい、真奈美は苦笑するしかなかった。
「いいよ、いいよ。好きなだけ泣きなよ、落ち着くまで待つからさ」
芸人さんもいろいろ大変なんだろうなぁ、と勝手に納得して。
「……もー、メチャクチャやってっ……!」
ハンカチを目元に押し付けながら、剣太郎は話し始めた。
相方に突然、解散を言い渡されたこと。
その理由が父親が倒れて家業を継がなければならないと言う、会心の一撃だったこと。
自分はこれからどうなるのだろうと、酷く心細い気持ちで暗い夜道を歩いていたら、いつの間にかここに辿り着いたこと。
何が起こったのか分からずパニックに陥りそうになった時、何処からか男女の話し声がして、目の前に突然二人が現れたのだと言う。
とにかく不安でいっぱいな中、図らずしも優しい声を掛けられてしまったら、もう死ぬほど涙腺が緩くなってしまったらしい。
「……そうだったんだ、大変だったんだねぇ」
真奈美は剣太郎の鳥の巣のような金色の頭をポンポンと叩いて、一緒にしんみりとしていたのだが……。
「話聞いてくれて、ホンマありがとぉな……真奈美ちゃん」
「あ、それはNG。せめてさん付けで、貴方の方が年下でしょ」
童顔男児の真っ赤な目の上目遣いはなかなか可愛らしかったが、それとこれとは別の話……兄の影響か、礼儀には厳しい真奈美である。
「おーい、……壁見つけたぞ。いつまでも無駄口叩いてないで、ちょっと来てみろ」
少し離れた靄の向こうから、いつの間にか周囲を探索していたらしい隼人のくぐもった声とともに何か硬いものを叩く音が聞こえて来た。
「ちょっと、……勝手に動き回っといて何、その言い方!」
無神経な言葉が癇に障ったらしい真奈美は、文句を言いながら声のした方に大股で歩いて行く。こんな得体の知れないところに置いていかれたくなくて、剣太郎も慌ててその後に続いた。
「……ぅわ、すごいっ……!」
「……壁、画?」
恨み事を言おうと近付いた真奈美と剣太郎だったが、目の前に突然飛び込んで来た光景に愕然とする。
キラキラと色鮮やかに輝く宝石なのか、それとも何かの鉱物なのか……そんな小さな発光する破片が視界を埋め尽くすようにびっしりと、さながら螺鈿細工のモザイク画のようで、ただその比ではなくて。バラバラな破片が、緻密な絵を描く。
赤銅色の長い髪に褐色の肌、湖面のような暗緑色の瞳を持ったその者は、大方の人の形はしていたが、何処か不自然な姿をしていた。額には瞳を更に濃くした翡翠色の巨大な輝石が埋め込まれ、周囲は立体的な彫り込みの蔦のような文様が刻まれており、先端の尖った両耳の後ろからは濡れたように輝く漆黒の鋭い角が生えていた。胸元には僅かに膨らみがあり、女を意味しているようだが、しなやかな両腕のその先の五指は研ぎ澄まされた刃のような爪に縁取られている……まるで人の型をした鋭利な鉾のようだった。
更に、その輪郭から派生するように理路整然と直線が様々な多角形や円形を繋ぐ元素記号のような文様が、縦横無尽に壁全体を覆っているらしい。
「破格の規模だな……」
隼人は感嘆の声を漏らす。
「日本じゃないみたい」
「当然だ、国内にこんな施設ある訳ない」
「えっ……!」
平然と言ってのけた隼人に、真奈美も剣太郎も目を見張る。
「腐っても建築家だぞ、俺は。モザイク画といい、古代カルタゴのものに似てるが……こっちは陶器じゃない、素材が全く違う。モチーフもローマ神話じゃないな、こんな化け物か女神か分からないの見たことないぞ。何だこりゃー、継ぎ目もどうなってんだ?」
ペタペタと壁面に触れながら、うーんと唸り声を上げる隼人は、それなのに何処か嬉しそうで……壁画を見据える双眸はその光を映した所為ではなくキラキラと輝いている。
「……ありゃー、入っちゃったな」
「何に?」
これは長いよー……溜め息を吐いた真奈美に剣太郎は怪訝そうな目を送る。
「私はお笑いマニアだけど、隼人は建築物マニアなの。琴線に触れる物に出会ったら場所とか状況とか関係なく、もう周り全然見えなくなっちゃうのよね」
「マジでっ……?」
「まぁ、ゆっくりしよー? 焦ってもしょーがないし。あっ、もしかしてライブとかあった?」
かなり悲惨な表情をしていたらしい剣太郎に、真奈美はハッとしたように尋ねる。
「……、やぁ……そんなんやないけど」
何でそんなに落ち着いちゃってるワケ? ……剣太郎が聞いて来た。
彼女達が落ち着いてくれているお陰で、剣太郎も正体を失うほど取り乱さなくて済んでいる。そのことには大変感謝しているが、事態は好転しているのか悪化しているのか全く先が見えない。隼人の話では、ここは日本ですらないと言う。目の前に壁があるからと言って、外なのか建物の中なのかも正直なところ分からないのだ。
それを知った後も、兄妹揃って驚きこそすれど、大きな動揺を見せない。隼人に至っては完全に己の趣味の世界に浸り、嬉々として得体の知れない壁画を撫で回している。
「誰かが先に泣いたり暴走しちゃったら、熱が冷めちゃうことってあるでしょ。そんな感じ」
剣太郎の憮然とした表情から疑問を読み取り、真奈美がそう答える。
「後ね、隼人と一緒ってのが大きいかな。さすがにたった一人でこんなところに放り出されたら、泣くよ」
冷静沈着で動揺したところなぞ見たことのない兄は、文句を言いながらもいつも真奈美を助けてくれた。だからこそ、今回も大丈夫と言う確信があったのだ。
「それに、今もただ単に趣味でやってんじゃないと思うんだ。この場所を特定する為にいろいろ調べてるんだと思う……身内の欲目じゃなくね、すごく頭良い人だから」
「仲良ぇんやな」
安心させようと更に言葉を続けたら、剣太郎から思いも寄らない言葉が返って来た。
「……うーん、そーでもないだけどねぇ」
そう来たかぁ……思い返してみれば、相当な兄自慢の言葉だったと気付いた真奈美は、照れ隠しのように目の前の壁の光る破片を一つ一つポチポチと押して行く。
「……えっ……」
そんな感じで真奈美が今の自分の目の色によく似た紫色の破片をグリグリとやっていたら、突如スルリとその指が壁の中にめり込んだ。
「ヤバっ……隼人!」
咄嗟に指を引き抜いた真奈美は、焦って彼に禁じられている呼び名を叫ぶ。
「呼び捨てやめろっつったろーが!」
ほんのりお互いの存在が確認出来る距離で壁画を確認していた隼人は、その呼称のお陰で現実に戻って来てくれたようだ。
「ごめんっ……そんなことより、壁壊しちゃった!」
「何ぃっ? どっかの国の文化財だったらどーすんだ!」
弁償!! ……と、血相を変えて彼は真奈美達の元にやって来る。
「……ん? 何か光ってる!」
「マジでっ……?」
三つの視線が集まる件の穴から、剣太郎の言葉通り金色の光が漏れ出していた。真奈美が開けた小さな穴に留まらず、モザイク画の破片の継ぎ目に沿うように……まるで枯れた大地に水が染み込んでいくように、急速に周囲に広がって行った。
「……ヤバいぞ、これ」
白い靄をかき消すように辺りを金色に染めて行く光の進行をその目で追いながら、隼人は何か予感めいた声で呟いたが。
ピキッ……
とても高いところから、何か硬い物に亀裂が入ったような、嫌な音がした。咄嗟に見上げると、落下する光の洪水。呆けて立ち竦む肩がぐいと引っ張られ、太い腕に強く抱え込まれる。直後、全身を襲った重い衝撃……隼人だろう大きな身体で視界が塞がれ、何が起こっているのか正確に確かめることは出来なかったが、金属が砕け、崩れ落ちる轟音が耳に届いた。
ああ、壁が崩れたんだな、このままでは生き埋めだな、と思い当たったところで、真奈美の目の前に急速に闇が広がった。