8 モブに目覚めてしまった。⑥
期末テストも終了し、数日後には夏休みになります。
学校全体は浮かれた雰囲気になって、とくに一年生は初めての夏休みということもありソワソワと浮足立っています。
前世の知識としては夏休みにはたくさんの宿題やアサガオの観察日記などがあるはずです。
しかし英蘭学園では、そのような課題は出題されません。
唯一出された宿題は絵日記だけです。前世のおかげで絵が得意なわたしにとってはもってこいの課題でした。
「ちょっといい?」
生徒玄関で大森さんに呼び止められます。
靴を履き替えているときのことです。
大森さんはわたしが運命を変えてしまった人間の一人です。
漫画での大森さんは、庶民の女の子ではありますが、入学試験を首席で合格し、高等部卒業まで首席をキープする天才です。
それがこの世界ではわたしのせいで学年次席で入学。
先日の期末試験でも2位でした。
これでは漫画のストーリーから逸脱してしまっています。
「英玲奈さん、転生者だよね?」
「……違います」
突然のことにわたしの声は震えます。
「ええ? いいよ、そういうの。面倒くさい。昔のなろう系みたいな。転生したこと、バレてはいけませんみたいな。もう、分かってるから、転生者なんでしょ?」
「……」
わたしは横を振り返ります。
大森さんは不機嫌な顔をしていました。
わたしはショートブーツから手を放します。
指定カバンのポケットから、連絡用の携帯端末を取り出します。
駐車場で待っているであろう高橋さんに、少し遅れるとメッセージを送信しました。
わたしは大森さんは見つめます。
大森さんは口角を上げました。
「だいじょうぶだよ。わたしも転生者だから。お互い大変だよね。漫画の世界に転生なんてさ」
大森さんは当然のことのように呟きました。
「……ちょっとついて来てください」
わたしは大森さんを引っ張って、人気のない場所に行きます。
学園はとても広いので、人が来なさそうな場所はすぐに見つかりました。
わたしと大森さんは何もない廊下で向い合います。
「わたしは転生者ではありません」
「ふーん。そこまで言いたくないなら、まあ別にいいけどさ。でも、転生者なんて言葉を知っている時点で、もう転生者であることを自白してない? 小学一年生が知っている言葉なのかな? 転生者って」
大森さんはわたしを問い詰めます。
「そもそも転生者じゃないのに、わたしに学力で勝てるわけないじゃんね。わたしは雪華院英玲奈を知っているけど、少なくとも学力に優れているような人じゃない。……言い方を変えようかな。あんたは誰だって言ってるの」
「わたしは雪華院英玲奈です……」
「……そう」
大森さんは悲しそうな顔をします。
「なのでわたしは転生者じゃないです……」
「……」
「ですが、前世の記憶ならあります」
「……はい?」
大森さんは目を丸くしました。
「わたしの前世は、野田好能という名前の女性でした。前世の記憶に目覚めたのは、小学校お受験の問題を解いている最中のことでした」
わたしは自分の前世を語ります。
「父親はサラリーマン、母親は専業主婦。普通の家庭に生まれた庶民の女の子です。好能さんは漫画が大好きでした。『民草少女の成り上がり!』も読んだことがあります」
「……」
「ですから、ここが漫画の世界だというのも分かっています。わたしが悪役令嬢であるということも、その結末も。怖くて怖くて堪らなくて、だからわたしはモブとして生きると決めたのです」
「……頭が痛い」
大森さんはその場にしゃがみこんでしまいました。
「えっと……。だいじょうぶですか?」
「てことは、あんたは野田好能さんじゃなくて、雪華院英玲奈なの?」
「そうです」
「同じ前世の記憶がある人間でも、こうも認知に差があるとは……」
わたしに野田好能としての自覚はありません。
わたしは雪華院英玲奈です。
「……転生者サポートセンターとかないかしら?」
「ないと思いますよ」
「うー、吐きそう」
大森さんは軽口を叩きます。
わたしは大森さんの側にしゃがんで、背中をさすります。
「……野田好能さんの死因は?」
「分かりません。でも20歳前後の記憶で途切れているので、そのくらいの年齢で死んでしまったのだと思います」
「そう。死因が分からないなら、それは幸せなことよ」
そう言って、大森さんは立ち上がります。
「わたしは英玲奈さんとは違う。ただ大森優子の器に入っているだけ」
わたしはしゃがんだまま大森さんを見上げます。
「わたしの前世の名前は、山本香苗。『民草少女の成り上がり!』が大好きだった普通の女の子よ。大森優子としての人生も、山本香苗の地続きだと認識しているわ」
「……」
「そんな山本香苗から、雪華院英玲奈さんにアドバイス」
大森さんはしゃがんでいるわたしを見つめます。
「この数か月の英玲奈さんを見て気づいたことがある。『民草少女の成り上がり!』に関して、野田好能さんを信じすぎてはいけないよ。その子、たぶんニワカだから」