2 悪役令嬢に目覚めてしまった。
無事にペーパーテストは合格していました。
合格を報せるお手紙と共に、最終面接のご案内がお屋敷に届きました。
お母様と一緒に最終面接の練習をします。
綺麗なお洋服を買ったり、様々なことに挑戦してますと面接で言えるように新しい習い事を始めたりしているうちに、あっというまに最終面接の本番当日を迎えます。
お母様専属の運転手である大平さんの運転で学校まで向います。
お母様は助手席に座り、わたしは後部座席に座りました。
高橋さんの運転ではないので、少しだけ酔いそうになってしまいます。
必死に外の景色を眺めることで、視覚情報と体性感覚の乖離を防ぎます。
これは庶民の知識、前世の知識です。
窓の外を眺めていると、知っている顔が見えました。
ペーパーテストの日にハンカチを貸してくれた庶民の女の子です。
母親らしき人が前を歩いていました。
前を歩く母親らしき人の早足に、庶民の女の子がなんとかついて行きます。
車が二人を通り過ぎるだけの一瞬でしたが、二人の足並みはそろっていないように思えました。
「お母様には庶民の方のお友達はいらっしゃいますか?」
「そうねえ。仲良くしていただいた方はいたわよ。でも友達にはなれなかったわね。今でも関わりがある方はいるけど、それはお友達としての付き合いとはちょっと違うと思ってしまうわ」
「そうなんですね」
車が英蘭学園に到着します。
初等部の生徒玄関の目の前に停車して、わたしとお母様は優雅に車から降ります。
外の空気に触れることで、酔いも覚めてきました。
胃がムカムカしますが、ひとまず面接に影響が出るほど体調に問題はないとは思います。
わたしたちが乗っていた車が発車し、続いて背の低い車が到着します。
その車の後部座席から降りてきたのは、金髪の男の子でした。
なんだか怒っているような表情をしています。
お母様の方も、車から降りてきた女性と目が合ったようです。
「あら惺王様ではございませんか。ごきげんよう」
「……雪華院様。ごきげんよう」
惺王ですって。
どこかで聞いたことにある名前です。
お母様に声をかけられた女性は苦虫を噛み潰したような顔になりました。
まるで、朝から嫌なものを見てしまったとでも言いたげな表情です。
ポーカーフェイスができてません。
「あらあら、分かりやすい方ですこと。表情に思っていることが全部出てしまっていますわよ。昔から変わりませんね」
「出しているんです」
女の戦いのようなものがスタートしてしまいました。
わたしはお母様のそういう一面を見ていられなくて、男の子の方に話しかけます。
「ごきげんよう」
「どう見てもごきげんはななめだろ」
「では、ふきげんよう?」
「……お前」
生徒玄関の前で舌戦をしていると、少しだけ周囲の注目を集めてしまいます。
そもそも雪華院というだけでも注目を集めますから、それに加えてお相手の方も名のある家のご出身なのでしょう。
そうなるとこういう小さないざこざですら、巨額の富が動きますので、みなさんの注目を集めてしまうのは必然なのです。
そのように注目を集めているときに、先日のハンカチを貸してくれた庶民の女の子の姿を見つけてしまいました。
「あ! 待ってください!」
「え?」
わたしは反射的に女の子を呼び止めてしまいます。
庶民の女の子はわたしの声に気づいて振り返ってくれますが、それによって周囲の注目が庶民の女の子に移ってしまいました。
注目を浴びてしまった女の子は、いきなりの出来事に戸惑っている様子でした。
わたしは悪いことをしてしまったなと思いながらも、平然を装うようにゆっくりとした足取りで女の子の前まで行き、カバンの中から包装紙に包んだハンカチを取り出しました。
「ごきげんよう」
「あ、え、はい。ごきげんよう」
「これ、貸していただいたハンカチです。このような場所ですみません」
「あ、いえいえ」
庶民の女の子は仰々しくハンカチを受け取りました。
とりあえず、今日やらないといけないことは一つ終わらせることができました。
「そういえば、ハンカチを貸していただいたとき、どこかで見たことがあるなと思いましたの。もしかしてわたしたちどこかで一度、お会いしたことがあったかしら?」
「……もしかしたら、近くのスーパーマーケットで買い物のお手伝いをしてるので、その場面を見たのかもしれません」
「あら? それはありえませんわ。スーパーマーケットなどという庶民のための店舗に足を運んだことは一度もなくてよ?」
「じゃあ、分からないかもです」
うーん。
確実にどこかで見覚えはあるのだけど。
「最終面接、頑張ってくださいませ」
「雪華院さんも」
「あら。あなたもわたしのこと知ってくださってたの?」
「あ、いや、えっと、この前ちょっとお調べして。それで……」
「おい」
二人でお話ししているところに、金髪の男の子が割り込んできました。
「オレは惺王海斗だ。お前は?」
「わたしは雪華院……」
「お前じゃない」
わたしは自己紹介を途中で止められてしまいます。
ちょっとだけ屈辱ですね。
こういう態度の人は、今までの人生で(短い人生ですが)出会ったことがありませんでした。
「えっと、わたしですか?」
「そうだ」
わたしも庶民の女の子の名前は気になっていました。
あれ? どうしてわたしは彼女の名前を知らないんでしたっけ。
聞くタイミングはあったように思えます。
彼女のように自ら調べることもできたはずです。
どういうわけか、彼女のプライベートに踏み込むのを躊躇していた自分に気づきました。
どこかで見たことのある庶民の女の子。
でもお嬢様のわたしは庶民の女の子を見たことあるはずがなかったのです。
それはポテトチップスを食べたことも見たこともなかったのと同じです。
ではお嬢様のわたしがどうしてポテトチップスを知っているのか。
それは前世の記憶があるから。
お嬢様のわたしがどうして庶民の女の子のことを知っているのか。
「長谷川日和です」
その名前を聞いた途端、グニャリと視界が歪みました。
足の力がフッと抜けます。
フラフラとよろけてしまいます。
「雪華院さん!」
「どうした?」
お二人の声が重なって聞こえます。
気持ち悪い。
わたしは口元を押さえます。
呼吸が乱れ、視界は白く飛び、自分が今どのような体勢でいるのか、自分が何者なのか分からなくなっていきます。
わたしはペタンとしゃがみ込みます。
稲妻に打たれたように、脊椎に鈍い痛みが走ります。
わたしはその名前を、前世の記憶で知っていました。
長谷川日和は、前世で大好きだった漫画のヒロインの名前です。
惺王海斗とは、長谷川日和を救い出すヒーローの名前です。
そして今、思い出しました。
雪華院英玲奈。
その物語の悪役令嬢です。
わたしはその場で嘔吐しました。
◇◇◇
『民草少女の成り上がり!』
この作品は前世でワンピースくらい売れていた伝説の少女漫画です。
アニメ化、映画化されたことで世界的にも有名になり、主題歌を担当したアーティストは年末の歌番組に出演。完結した後には人気アイドルや俳優をふんだんに使って実写ドラマ化もされていました。
全てのメディアミックスで成功した、まさに日本の女の子のバイブルのような漫画でした。
内容は良家の子女が通う私立英蘭学園の初等部に、庶民の女の子が特待生として入学するところから始まります。
世間知らずで浮世離れしたお金持ちの生徒たちに、庶民の主人公はなかなかなじめませんでした。
それでも数少ない庶民の方とお友達になり、趣味である本の執筆を頑張る毎日です。
そんなある日、学園の王子様と主人公が出会い、恋に落ちる場面から物語が始まります。
しかし王子様の取り巻きたちは庶民の主人公が王子様に近づくことが許せません。
主人公に対する執拗な嫌がらせが行われてしまいます。
その嫌がらせを受ける主人公が長谷川日和さん。
嫌がらせの主犯格が雪華院英玲奈、つまりわたしでした。
結局のところ最後は数々の苦難を乗り越えたお二人は見事に結ばれて、めでたし、めでたしです。
さらには最後の最後までお二人の逢瀬の邪魔をして、主人公を苛め抜き通したわたしは、お父様の力を使って王子様と婚約までこぎつけ、その披露パーティーで今までの悪事を全て暴露され、完膚なきままに叩きのめされるのです。
こうして雪華院英玲奈は少女マンガ史上最強の悪役として表舞台から姿を消しました。
読者のみなさまは、これまでの悪逆非道っぷりを思い返しながら、溜まった敵意が解放されるように「ざまみろ!」とすっきりするのでした。
前世のわたしも「やった!」と叫びました。
生徒玄関で嘔吐したわたしは、体調不良として保健室に運ばれました。
とても豪華な保健室でした。面接の順番が回ってくるまで、保健室で休憩することになりました。
お母様に頭を撫でられながら、わたしはしくしくと涙を流します。
悪いことなんてしたことがないのに、わたしはすでに悪者でした。
わたし、悪い人になんてなりたくないです。
嫌われ者なんて、つらいです。
そもそも前世のわたしも、「やった!」なんて酷いです。
「そろそろ時間ね。行きましょう」
「……はい、お母様」
お母様に促されて、わたしはベッドから降ります。
髪型や服装を整えてから、保健室を出ます。
面接会場に指定されている一年三組の教室に向かいます。
廊下には椅子が用意されていて、わたしとお母様はその椅子に座って順番を待ちます。
教室のドアが開きます。
中から出てきたのは、長谷川さんとそのお母さんでした。
「あ」
長谷川さんはわたしの姿を見て思わず声を漏らします。
「英玲奈、行くわよ」
お母様は椅子から立ち上がります。
わたしもお母様につられて、立ち上がります。
長谷川さんはお母さんに促されて、わたしたちの道を開けるように、ドアの前から退きました。長谷川さんのお母さんは、わたしたちに小さく頭を下げています。
お母様は二人を一瞥し、取るに足らない存在であることを認識しました。
長谷川さんはわたしのことを心配そうに見つめています。
「……」
長谷川さんは無言でわたしを見つめていました。
庶民とお嬢様。
主人公と悪役。
良い子と悪い子。
このまま、漫画の結末の通りにわたしの人生は進んでいくのでしょうか。
わたしは教室に足を踏み入れます。
「待って!」
「……?」
長谷川さんはわたしの腕を掴みました。
わたしは力なく振り返ります。
先ほどまでの表情とは打って変わって、真剣な様子の長谷川さんがいました。
「ハンカチ! 貸します!」
「……え?」
長谷川さんはハンカチをわたしの胸に押し付けました。
「お守りです!」
「お守り?」
「消防士のお父さんが言っていました! 消防士の役割は消す! 防ぐ! なので! ハンカチの役割も、涙を拭く! 防ぐ!」
「……はい?」
「とにかく! 貸します! また今度、返してください!」
「あ、はい。また今度」
長谷川さんに背中を押されます。
わたしはしばらくハンカチを見つめて、スカートの前ポケットに入れました。
どうして彼女が主人公として漫画の神様に選ばれたのが、なんとなく分かった気がしました。
教室に足を踏み入れます。
「英玲奈。大丈夫?」
「はい。だいじょうぶです」
お母様に声をかけられます。
だいじょうぶです。
教室には三人の面接官が並んでいました。
わたしはお母様の隣に立ちます。
「お座りください」
真ん中に座っていた女性の面接官から着席を促されます。
わたしは「失礼しますわ」と一言添えて、椅子に座ります。
「自己紹介をお願いします」
わたしはポケットの中のハンカチを握りしめます。
きっと、だいじょうぶ。
自分が何者であろうと、自分のなすべきことをするだけです。
「東京都出身。雪華院英玲奈ですわ」
悪役令嬢だとしても。
漫画のキャラだとしても。
わたしは雪華院英玲奈。
一人の自立した女の子です。