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僕が僕であるうちに僕を見つけてよ

作者: 北川 圭

#1


僕はまだ覚えている。

恍惚とした表情の男と、全く感情を表さない僕が向きあっていたときのことを。

僕はただ、機械的に手を動かし続けてときが過ぎるのを待っていた。

どうせ大した時間じゃない。ほんの少しの我慢だ、と。

男のうめき声とともに、僕の手に白い液体がかかる。

それを丹念に拭き取るようにしながら、ヤツは僕の手をなで回した。



「池谷ってさ、何でいつも右手に包帯してるの?」


初めて同じクラスになった優佳が、無邪気にそう他の子に聞こうとしたから、

あたしたちは思わず彼女の口を急いで塞いだ。


「ふぎっ!あにふんのよ!」


「しっ!そのことには触れないのがお約束なの!」


池谷真澄は何でかわからないけれど、学校で目立つ存在だった。

わりと無口だし、運動がものすごく得意なわけじゃないし、

まあ勉強はできたけれど、友だちも少ない方だった。

ただ、とにかく背が高くて大人びた表情は、とても高校生には

見えなかったことは確かだ。

今どき学ランの制服、昔のナンバースクールのなごり。

その一番上のホックをはずして、彼は静かに文庫本を読んでいた。

そんなヤツはざらにいた学校だったから、それで目立っていたわけじゃない。


「だって体育のときとか、水泳のときとか、どうしてんの?」


「さあ、男子体育のぞいたことないしぃ」


「第一、手ぇ洗わないわけ?」


だからあんたは声がでかいんだってば。

焦ったあたしは優佳の肩を押さえながら、つい真澄の方を向いてしまった。

思いがけず目が合う。

冷ややかな視線。口角が下がっているのは怒っている証拠。


あたしと真澄とは小学校から一緒だった。

酷い怪我、ヤケドのあと、いろいろ噂されたけれど、先生たちはいつも否定した。

痛いわけじゃないらしい。不自由でもない。それで跳び箱も跳んでいたもの。

だけど、次の日になれば汚れた包帯はつねに新品の真っ白いものに替えられていた。

鉛筆は左で持つし、給食だってそっち側で器用によそう。

習字さえ左手で書くけれど本当は右利きだと聞いたことがある。

誰も訊けなかった。真澄には。「どうして右手を使わないの?」とは。

彼は他の話もほとんどしなかった。嫌われているわけじゃない。

特別扱いが当たり前。そんな雰囲気を醸し出していた。


ふい、と真澄が立ち上がって席を立つ。

その背中があまりに寂しげで、もしかしたら優佳の声が聞こえたのではないかと

あたしは急に心配になった。

追いかけて廊下にいた彼に声をかける。


「池谷!」


かけてしまってから、なんて言えばいいのかあたしはとまどった。

顔がほてってくる。

同じ学校出身だからと言ってそんなに親しいわけじゃない。

もっとも、親しいヤツなんて彼にはいないけれど。


あたしの声に振り返った真澄は、澄んだ瞳であたしを見つめた。

深い深い漆黒の闇の奥に、微かに光が見える。


「…ゴメン」


「何で神谷が謝るんだ?」


冷たい声は変わらない。いえあのだからその…、意味不明な言葉の羅列。

あたしはもっと焦ってつい口走ってしまったのだ。


「優佳が、その…包帯のこと訊いたから」


言ってしまってからものすごく後悔した。傷つけた。

こんなにストレートに言ったヤツなんて誰もいない。どうしたらいいんだろう。

もっと怒るに違いないと目を固くつぶったあたしに、真澄はなぜかふっと笑った。


「えっ?」


驚いて顔を上げるあたしに、気になるんだ、そんなにと言い放つ。


「べ、別に気にはならないけど、言われたくないんだろうなって」


もう半分ヤケになって、あたしは言葉を続けた。


そんなあたしに向かい、真澄は一度視線を下に落とすと、

今度はまたまっすぐにあたしの目を見つめ返した。

ドキドキするような濡れた瞳。女子ほどある長いまつげ。

こんなに綺麗な男の子だったなんて気づかなかった。


「こんな穢れた右手なんか、朽ち果ててしまえばいい」


何も言えないあたしをその場に残して、真澄はそのまま階段を上っていった。

四限の始まりを告げるチャイムが、校舎中に鳴り響いた。





#2


『朽ち果ててしまえ』…どんな意味だったんだろう。


世界史なんて何の話も頭に入らなかった。

生徒中から舐められ切ってる早川センセまでもが、

神谷さん、せめて寝ててくれた方が気が楽です、と呆れて言ったほど。

だからか、あたしが腹痛で保健室に行きたいと言ったら、

先生はあきらかにホッとした顔をした。

そんなに邪魔だとでも言いたいわけ?もう。


優佳がこっちを見て手を合わせる。いちおう悪いとは思っているらしい。

そうよ、優佳さえあんなこと言わなければ。


違う、きっとあたしはずっと真澄のことが気になって仕方がなくて、

だからつい言葉に出してしまった。あんなに話したことなんてなかったから。


あの包帯はいつからだったんだっけ。小学校の入学式?

そんな昔のことなんて覚えてない。家に帰ったら写真を見てみようか。

同じクラスではなかったけれど、どこかに写っているかも知れない。


保健室に行くふりをしてさっき真澄が上がっていった階段を、

かかとから足裏全部をつけるようにゆっくりと歩いてゆく。

授業中の校舎は物音がしなくて、ほんのちょっとの足音が酷く響くのだ。

とてもいそうもない。この上はもう屋上。

それでもあたしは歩いていった。何の根拠もなく。


建前上、いつも施錠してあるはずの屋上への鍵はあっさりと開いて、

あたしはすばやく辺りを見回した。

誰もいませんように、誰か、真澄だけがいますように。

なんて都合のいいお願いだろう。

足を踏み出したあたしの目に飛び込んできたのは、

フェンスを乗り越えようとする人影。


「ちょっ!ちょっと!!止めなさいよ!!」


背の高い背中、細くて少し猫背で。真澄!?

あたしはその人影に向かって夢中でしがみついた。

まさかここから墜ちようっていうんじゃないでしょうね!?


「何だよ!?何すんだ、おま…、あぶねえだろ!!」


背の低いあたしはあっけなくその辺のコンクリートにひっくり返って、立ち上がれずにもがいていた。振り返った学ランは最初あっけにとられていたけれど、その姿があまりに間抜けだったのか、とうとう笑い出してしまった。


「わ、笑ってないで早く引っぱってよ!!」


見知らぬ先輩だったらどうしよう、そんなことを考える余裕もなく、あたしは叫んだ。恥ずかしくてとにかく何が何でも早く起き上がりたかったから。


ほら、と差し出す左手にすがる。ようやくすばやく態勢を整えるとスカートをバタバタとはたいた。目の前には笑顔の…真澄。初めて見た。彼が笑うところなんて。


「おまえさ、おれが飛び降りるとでも思ったわけ?」


笑顔の痕跡を残しながら、真澄は口元をゆがめた。あたしは身じろぎできずに黙りこくった。

「死ぬんだったら、もうとっくに死んでるよ。今さら」


吐き捨てるように言った口調があまりに哀しげで、あたしはますます何も言えなくなった。その代わり、こんなチャンス二度とないだろうというほど、真澄の横顔を見つめ続けた。

彼は器用に左手でタバコを取り出すと、フェンスのすき間からライターを拾い上げた。何だ、落としたライターを取りたかっただけなのか。

慌てたあたしが間抜けすぎて、ちょっとだけ頬が緩んだ。その瞬間、真澄はあたしの方を向いた。


「見つかるとやばいんじゃない?先生に」


「何?言いつけに行くの?優等生」


冷たい言い方にかちんと来て思わず言い返す。あたしが優等生なんかじゃないのは、池谷だって知ってるでしょうが!


「小学校以来の付き合い…だもんな」


へえ、そんなふうにいちおう思っててくれてたんだ。意外な言葉にあたしは目を丸くした。


「このライター、さっき早川にもらったんだ。おれのはガスがなくなったから。タバコは今、自販で買えないじゃん?国語科教員室からかっぱらってきた」


「何も言わないの?お家の人も先生も」


「おれには、ね。関わりたくないんだろ、めんどくさいヤツだから」


自由自律を重んじる変なプライドのある学校だから、この程度でガタガタ言われることもないけれど、真澄には合わないような気がした。無理して格好つけて、授業抜け出してまで屋上でタバコなんて。

でも、真澄もおんなじことを考えてたみたいだった。


「そっちこそ珍しいじゃん。いつも明るく元気でいい子の神谷が、世界史サボってこんなとこ」


だって、あんなこと言われたら気になる。とてもそうは言えなかった。でもきっと真澄には伝わっているんだろう。


「見たい?」


何が?本気で訳がわからずきょとんとしたあたしの顔を見て、真澄はまた笑った。こんなに笑顔を見せてくれたのは今日が初めて。でもその瞳にうっすらと映る陰に、ちょっとだけ胸が痛くなった。

タバコは長いまま、とうに携帯灰皿に捨ててある。なんて用意周到な知能犯。証拠は残さないんだ。


真澄は黙って包帯をはずし始めた。


「いいよ、別に。見たい訳じゃないもん!」


慌ててあたしは止めたのに、彼はやめようとはしなかった。細く長くきれいな指が現れる。

傷一つない。

それは左手に比べてもとても白くて華奢で、美しかった。

気づかないうちに、あたしはそっと手を伸ばしてその右手に触ってしまったようだった。

びくっと、真澄の身体が震える。


「なんて、綺麗な手」


今日のあたしはどっか変だ。いつもならこんなこと言いやしない。なのに真澄に魔法でもかけられたように、口が勝手に言葉を紡ぐ。


思わずそっと手の甲から指先へ。ふだんめったに話したこともないのに。友だちでも何でもないのに。ただの知り合いで、同じ学校だというだけで。

でも、何かに引き寄せられるようにあたしは彼の手を、優しくなでた。


気づくと真澄は青白い顔をして、左手で口元を押さえている。まるで吐き気をこらえるかのように。


「ご、ごめん!あたしあの、ごめんね!?」


必死に謝るあたしをよそに、真澄は急に立ち上がると屋上から下へと駈け降りていった。

あとをついて駆けよると、彼は四階の手洗い場で水を流し続けていた。

何度も何度も、泡立ちの悪い学校の石けんを無理やり手にこすりつけて、必死に洗っている。


「ハンカチある?貸そうか?」


あたしの声など耳にも入らないらしい。ただ流れる水の音だけが響く。

右手の甲、手のひら、そして指先までを丹念に。それはひたすらくり返された。


「もう止めなよ!それくらいでいいでしょ?あたしが触ったから汚いって言うの?」


そしたらホントに謝るから!!叫ぶように言ったのに、真澄はそんなことじゃないとつぶやきながら、何度も洗い続けた。


「じゃあせめて保健室のハンドソープにしなよ!あれなら消毒もできるよ?」


その言葉にようやく我に返ったのか、真澄は生気のない目をこちらに向けた。

制服のどこにしまってあったのか、清潔そうな小さいタオルを出すと丹念に水気を取る。

指の一本一本を拭き取ると、まだ真新しいそのタオルを、彼は惜しげもなくその辺のゴミ箱に投げ捨てた。


「あっ!?」


驚いて声を出すあたしに右手を差し出して、真澄は、包帯巻いてよ、そのくらいできるだろ?小六のときの保健委員会委員長なんだから、とつぶやいた。





#3


誰も来ない数学科の教材室で、あたしと真澄は向かい合っていた。もう五年も前のこと。いいえ、たった五年前にはあたしたちは小学生だった。


今はもう、高二。なのに真澄は包帯を巻かれるためにあたしに右手を預けていた。

きっと今まで、友だちの誰にも触らせなかっただろう右手を。


そもそもいくら保健委員だからといって、包帯の巻き方を習ったわけじゃない。いつも養護の先生のそばにいて見よう見まねで遊んでいただけ。

確か、ときどき角を折り返すんだよな。それで力を入れすぎないように、でも緩まないように。

何度も何度もやり直した。不思議と真澄は何も言わず、そのままじっと待ち続けていた。


真澄の手は細くて、全く日焼けしてないから血管が透き通るかのように白かった。女の子のようにすらりと伸びて、ほんの少しいつも見えている爪の部分だけ、ちょっとだけ生活の跡が見える。


最後はどうするんだっけ。躊躇しているあたしに彼はポケットから紙テープを取り出した。あたしはそれを当たり前のように受け取り、手で乱暴にちぎってぺたっと貼り付ける。


「はい、これでおしまい!」


そう言うと、真澄はまた笑顔を見せた。雑なのは変わってねえな、って。

話はそこで途切れた。まさか部屋でタバコを吸うわけにも行かないのだろう。手持ち無沙汰で、でも今さら授業には戻れなくて、あたしたちは二人してただ黙った。


だからかもしれない。あたしはごく自然に彼に訊いていた。


「何であたしに包帯巻けなんて言ったの?」


「面と向かって訊いてきたヤツなんて、おまえが初めてだったからさ」


え、だって小学生なんて無神経で空気読まずに平気で訊いてくるんじゃないの…。そう思ってから急にあの頃の担任の言葉を思い出した。


…池谷くんは病気で長く休んでたから、手に包帯していても何でか訊いちゃダメよ…


そうだった、それは確か小学校の二年の秋の頃。何で忘れてたんだろう。二年生は同じクラスになったんだ。なのに真澄はずっと学校を休んで。

誰かが「病気なら千羽鶴を折ってあげたいと思います」って言ったのに、みんなはそれが何かすごくかっこいいと思ったのに、担任はあわててそれはしなくていいから、って言ったんだ。がっかりした女の子たちの顔。せっかくの善意だったのに。


中学では、もう真澄のこの雰囲気はすっかり定着してしまっていて、誰も近寄る気にすらならなかった。勉強のできる数人の友だちと、たまに一言二言話しをする。そんな姿しか見たことなかった。クラスのやんちゃ君たちでさえ、真澄には何も言えなかった。


あの暗い目を見たら。


でも今は、ほんの少しだけ微笑んでる。あたしの方を向いて。信じられなかった。

包帯という結界で守られた右手はだらんと下げられ、もうその役割を終えたとでも言いたげに所在なく壁にもたれかけていた。


「痛く、ないわけ?」


「何だよ、一回口きいたらけっこう馴れ馴れしいんだ」


口ではそう文句を言うくせに、痛かないよ、と返事をする。あたしは真澄がますますわからなくなっていった。言いたくないのか、訊いて欲しいのか。

真澄の左手が自らの唇にそっと触れる。タバコそんなに吸いたいのかな。また屋上行きたいのかな。

でもそれは、大人びた彼の仕草と言うよりも幼い子どもの寂しさのようで、あたしはその動きから目を離せなくなっていた。


「お父さん、いるんだよね池谷んちって」


何言い出すんだ?というような不思議そうな顔であたしを振り返る。そして納得したように一人頷いた。


「残念ながら両親も揃ってるし、一人っ子だけどな。殴られて育ったわけじゃないし、成績が悪いと叱られるような親でもないし。みんな考えることって同じな。担任も学年主任も、スクールカウンセラーでさえもそう言った。家庭とか親子関係に問題があるんじゃないのかって」


親は悪者にされて、いい迷惑だよな。ものすごく寂しそうな苦笑い。


「じゃあ何であんなこと…」


「穢れてるって?本当のことだから」


「池谷?」


ふいに真澄はこちらに向き直ると、おまえって口堅い?と突然訊いてきた。

あまり急だったから思わず言葉を失うと、女だもんな、そんな訳ねえよな、とぽつりと言った。


「そ、そりゃああたしはおしゃべりだし、センセの悪口とか部活の先輩の文句とか、やな子のうわさ話とかしちゃうけど…。でも、内緒話を誰かに話したりなんて絶対しない!」


もし何かを一人で抱えているとしたら、辛いことだよ。でも、でもだけど、それがもしとてつもなく大きなことだったら、あたしなんかじゃ受け止めきれないんじゃないか。

急に怖くなった。ここから逃げだそうか、そうも思った。耳を塞ごうか。それできっと深く深く真澄を傷つけるのだ。


どうしたらいいんだろう。


「ごめん、変なこと言って。神谷が気にするなよ。行こうぜ、学食が混む前に一番前に陣取って。包帯巻いてくれたから、限定エクレアおごってやる」


おおよそ真澄には似合わなそうなセリフを吐いて、彼が立ち上がろうとする。それでいいの?今、せっかく開きかけた真澄の心はまた頑なに閉じてしまうんじゃないの?


あたしの心は揺れ続けた。 





#4


彼があたしに背中を向けて立ち上がったそのとき、突然大きなベルが鳴り響いた。


「な、何!?なんの音!?」


聞き覚えがあるのに思い出せない。いつも聞いているはずなのに。ああどうして肝心なときに人はこうして記憶を取り出せないのだろう。

焦るあたしに振り向いた真澄は、これ以上なく冷静な声で言った。


「バカ、非常ベルだ。いつもの誤作動でしたってやつだよきっと。じゃなきゃ、誰かがヘマしてタバコの煙でも…」


言いかけた真澄が真剣な顔になった。あたしにもわかる。ほんの少しだったけれど

焦げ臭い匂いがただよう。


まさか、本当の……火事?


教室からバタバタと足音が響く。避難訓練なんかじゃない。本当に逃げてるんだ。

どうしよう、ここは四階の一番端で普段は誰も人がいない。急いで逃げないとあたしたちがここにいるなんて気づかれないかも知れない。


「急ごう、神谷!」


こんなときでも真澄は左手を伸ばしてあたしの腕を取った。ぐいっと引っぱられる。思ったよりずっと力強く。さっき笑いながら立ち上がらせてくれたときとは違って本気で。


廊下は濡れていた。


もう勝手にスプリンクラーが作動しているんだ。その先にあるのは…大きな電動シャッター。

『非常時には自動的に降りてくるから、煙はそれ以上来ないようになっている。だから安全だ。でも絶対に下をくぐろうとしてはいけないぞ』


それこそ小学生の頃から何度も何度も言われ続けてきた言葉。避難訓練なんて何十回もやってきた。炎天下で、寒空の下で、じっと耐えた安全の先生のお説教。

ああ、だけどそれはどこか起こりえない架空の話で、こんなふうにシャッターは降りることなどある訳がなくて。

そんな思いにとらわれていたせいか、あたしは無意識にそのシャッターをくぐってしまった。半分降りかけていたのは目に入っていたはずなのに。


ずるりと、スプリンクラーの水に足を取られた。まさかのタイミングであたしはこけた。信じられない鈍くささ。そんなこと言ってる場合じゃないのに!


「神谷!!」


真澄があわてて両手であたしを掴むと身体ごと引っ張り出そうとする。

両手?そう、彼の右手と左手があたしの腕を。なのに水に張りついたスカートが邪魔で動かない。


無情にもシャッターは降りてくる。あたしのふくらはぎに当たる感触!!

…もうダメ、あたしはここで脚を挟まれて動けなくなって…


思わずあきらめて目をつぶったあたしは、それ以上重みがかからないことにようやく気づいた。

どういうこと?

見ると、真澄はわずかなシャッターのすき間にその両手を差し込み、持ち上げようとしていた。無茶もいいところだ!相手は無機質な機械。手加減なんかしてくれない。


「バカっつってんだろ!はや…く、脚、抜けよ」


よほどの力を入れているんだろう。華奢な身体で真澄が必死に歯を食いしばっている。息が上がっている。そんな、この状態であたしが脚を抜いたら…。


「そんなことしたら、池谷の指が折れちゃうよ!!」


骨折ですめばマシかも知れない。どうしよう。早く助けを。


「い…いいんだ、こんな手なんか!」


「よくない!!大事な池谷の手じゃんか!!」


包帯の下から現れた透き通るような白い手。細くて綺麗で人間のものではないような。


「言っただろ!こんな穢れた汚い手は要らないんだよ!」


「なんでそんなこと…」


荒い息の合間に、何かをこらえるような言葉を吐き出す。そうでもしないと言えないとでもいうように。


「…小さい頃、学校に上がった直後から、ずっと遠縁の男のジイコウイを手伝わされてた。おれはそれが何か、あまりよくはわかってはなかったけど。でもそいつは言ったんだ。誰かにばれるとお母さんたちが泣くよって。だから言っちゃいけないんだと思った」


…ジイコウイ…それが自慰行為という漢字に変換されるまであたしはしばらくかかった。わかってから、唇を噛んだ。何それ、立派な犯罪行為じゃないの?

なのに真澄は淡々と続ける。息は苦しいはずなのに。手の痛みは尋常じゃないはずなのに。自分を罰するかのように。


「それに、直感でおれは悪いことをしていることだけはわかった。そいつが行為を終えるたびに見せる表情で、伝わってきたから。

でも言いなりになるしかなかった。なぜかよくわからない。思い出せない。

誰にも言わない分、おれは夜中に大声で泣き叫ぶようになった。気が狂ったように泣いて泣いて、何度も手を洗い続けて。

誰が止めても止まらないほど、何時間でも手を洗い続けた。

そいつが引っ越して、責め苦から解放されても、手を洗うのを止められなかった。止めたくてもとまんないんだ。

イヤだイヤだと言いながら、おれはとうとう一日中、手を洗い続けるようになった」


わかったから、もういいから、池谷やめなよ!

あたしは何度も真澄の言葉をさえぎろうとしたのに、彼の思いは堰を切ったように防ぐことはできなかった。

真澄の包帯に、うっすらと血がにじむ。相当痛いに決まってる。

あたしも必死に脚を抜こうとしてるのに、さっきからびくともしない。もっと細ければよかったのに、おおよそ今、関係ないようなバカバカしいことまで思いながら。


「いろんな人にたくさん訊かれても、言えなかった。言わなくてもわかって欲しかったのに、誰も気づいてもらえなかったんだ。その絶望感で口は閉ざされた。

親はあちこち病院やらカウンセリングルームやらをはしごしたけれど、それでも手を洗うのは止まらなかった。

夏が終わる頃、母親がふと思いついたように包帯を巻いてくれたんだ。おれが…右手の汚れが落ちない…とつい口をすべらしたから。これでもう、きれいだよって。この包帯が守ってくれるから大丈夫だよって」


ああ、それから真澄はずっと守られてきたんだ。この白い包帯に。でもその代わり、おぞましくも厭な思いまで、ここに閉じこめてしまったんだ。


真澄……。


「自分が男になっていくにつれて、すべてのことがますますイヤになってったよ。包帯なんてバカバカしくて早く取りたかった。でも取れば嫌でも強迫的な手洗いが始まって、自分では到底止められない。でも、今さら誰に言ったところでわかってもらえるとは思わないし、言いたくもなかった」


「たった一人で…抱えてたの…?」


なんであたしにそんな大事なこと。そっと訊くと真澄は目を逸らした。


「言ったじゃん。おまえが初めて、面と向かって包帯のこと口にしたから。それに、保健委員長だし、さ」


あれは優佳が…、言いかけて、あのときどうしてあたしは真澄に謝ろうとなんて思ったんだろうと不思議に感じた。自分のことなのに、きっと自分が一番わからないんだ。


「ありがと、言ってくれて。でも今は大事な手だよ。あたしをこうやって守ってくれてる」


これだけは照れずにまっすぐ真澄の瞳を見つめて言った。彼も見返した。

二人で頷くと、ここで一気に勝負をかけてみようと思った。真澄が精一杯力を込める。言葉なんかなくても伝わる。大丈夫、助けてくれる。真澄の大事な大事なこの右手が。


「行くぞ!せーの!!」


タイミングを合わせて、あたしは必死に脚を引き抜いた。上履きと靴下と、たくさんの擦り傷、多くのものを向こう側に置き去りにして。

それに合わせて、真澄はすばやく両手を手前に引いた。


ガッシャアアン!!


ものすごい音とともに、シャッターが下まで落ちきる。二人とも肩で息をしながらそれを呆然と見ていた。怖いとも感じる間もなく。

真澄の右手は、ほとんど包帯が取れて皮がめくれていた。血だらけの手。


それでもあきらめずに右手も一緒に引いたのは…彼自身。



「大丈夫かあ!!」


ようやく廊下の向こうから叫び声が聞こえる。あれは学年主任の先生だ。

校舎に誰か残っていないか、見回りに来てくれたんだろう。もう、遅いよ来るのが!!


「池谷、その手…」


血だらけの両手に先生は絶句した。それに無理やり笑顔を作ると真澄は「大したことないから」と、ぶっきらぼうにつぶやいた。


後ろから何人かの先生たちもやってくる。シャッターに挟まれたあたしを助けたのが真澄だと告げると、みな、驚いたように彼を見た。


毛布を持った先生もいて、あたしを抱え込んでくれる。話を聞くと、突然の火事騒ぎで逃げ遅れた生徒が何人も出たらしい。そう言えば、高校で避難訓練なんて、真面目にやった覚えがないしなあ。やったのかも知れないけど。


現実味がなくて、何だかおかしくなった。ひざから下の擦り傷も痛いはずなのに、真澄のことも心配なはずなのに。

ふと隣を見ると、同じ思いだったのだろうか。真澄もこちらを向いてばつの悪そうな顔をしている。二人で共犯の気持ちを分け合う。


火事はボヤですんだから。理科室から出火だ。よかったな、タバコが原因でなくて。

主任の先生にニヤッとささやかれた真澄は、見たこともないような照れ笑いをした。





#5


「ねえ、池谷ってさ、今度は何であんなパンクなカッコしてんの?」


優佳の声が大きすぎるからと、あたしたちはまた彼女の口を大あわてで塞いだ。


「ふぎい!だあらなにふんの!」


「あんたはいつも一言余分なの!!」


そう叫びながら、でもあのとき優佳の一言がなかったら、あたしはその一歩を踏み出せなかったのかなってちょっとだけ彼女に感謝した。もちろん塞ぐ手はゆるめなかったけど。



手の傷が治った週明けの月曜日に、真澄は白い包帯をしてこなかった。誰もが目を見張る。その代わり、ほっそりとした右手にきつめの黒いレザーグローブ。指先はかなり露出していて、白い透き通るような肌が見えている。夏は蒸れて暑いんじゃないかな、余計な心配までした。


「あんだけ背が高くて顔もいいじゃん?本気でロック系のボーカルとかやったら格好良さそう!」


優佳は相変わらず呑気な発言をくり返す。だから聞こえるでしょ!みんなが必死に抑えるのがおかしくて、あたしはつい口をすべらせた。


「えっー、だって池谷ってカラオケ下手だよ?リズム感ないし、エクセルの『yo!yo!』なんかぼろぼろだったし」


何気ないあたしの一言に、女子全員が一斉にこっちを向いた。しまったと思ったときはもう遅かった…みたい。

あたしは女の子たちに拉致されて問い詰められた。


「あんた、いつ池谷とカラオケ行ったのよ!!どういうこと?『yo!yo!』って最近の歌じゃん!ことと場合によっちゃ、ただじゃおかないからね!」


救いを求めるようにちらっと真澄の方を向くと、彼は涼しい顔で文庫本を広げていた。いつもと変わらない冷たい表情。でもあたしは知ってる。けっこう照れ屋で恥ずかしがり屋のくせに、マイク持ったら離さないんだよって。そのときは嬉しそうな顔をするんだよって。

その真澄に今度は髪を染めた男子たちが近寄る。バンドをやってる連中だ。親近感でも持ったのかな。


「なあ池谷。おまえさ、パンクとか聴くの?そのレザグロ、本革で高かったんじゃねえの?」


それを聞くとなぜか真澄は耳まで真っ赤にしてしどろもどろになった。今まで話したこともないクラスの仲間だからかな。思わずみんなが真澄の言葉を待つ。いつもみたいに何も言わずに席を立ってしまうんだろうか。あたしはちょっとだけはらはらした。


なのに真澄は、ヤツらの方に身体を向けながらも視線をそらし、恥ずかしそうにぽつりとこう言ったのだ。


「いやあの、そう、じゃなくておれ、前からヨーヨー刑事デカの大ファンで。DVDセット買ったらこれも安く買えるって言うからつい…」


ヨーヨー刑事って、あの、革の手袋してヨーヨー振り回すセーラー服の女子高生刑事とかいう特撮もの!?


バンドの連中はあまりの衝撃に言葉を失って突っ立ってるし、他のクラスの仲間たちは笑っていいものかどうか決めかねて、でも耐えきれずに肩を震わせてるし、アキバ系の少年たちは、真澄に向かって「同志よ!」と言いながら抱きついていった。


「お、おい、よせよ!離れろよ、うっとうしい!」


真澄は精一杯強がって言ったけれど、もうあのポーカーフェイスは通用しそうもないみたいだね。

くすくす笑いはクラス中に広がり、いつの間にか真澄は笑顔の男子たちにもみくちゃにされていた。

その中心で、笑うことに慣れてない真澄は、ぎこちない表情で一人照れていた。



「似合ってるね、その手袋」


せめてグローブと言ってくれ。帰り道、真澄はぶつくさ言ったけどそれでもちょっとはにかんで自分の右手を見つめていた。


「そんなに大ファンだったんだ、皆川杏子のこと」


わざとヨーヨー刑事役のアイドルの名前を言ってやると、真澄はますます顔を赤くした。いじめすぎたかな?


「包帯取って、お母さん喜んだでしょ。話したの?」


彼はしばらく黙っていたけれど、顔を上げるとあたしをじっと見た。


「父親にね。お袋には内緒にしとこう、男同士の話だからって。でも話せた。気づいてやれなくて悪かったって。おまえは何も悪くないんだぞって、さ」


手洗いはちょっと復活しちまって、洗濯の手間が増えただの、これ以上タオル捨てるの止めてちょうだいだの、お袋は文句ばっか言ってるよ。


そう言う真澄の顔は、前とは違ってとても自然に見えた。


包帯を巻いてくれたのは、辛そうに手を洗い続ける真澄を助けるためのお母さんの愛情。そして、それをどうしても取れなかったのは、ううん、見せ続けていたのは誰かに気づいて欲しいという真澄なりの心の声だったのかも知れない。


誰も触れてはいけないと押し込めていた。おそらく真澄自身も。

でも、本当はこうやって過去はその場でお日様に当てて、天日干しをして、カラカラに乾かしてしまえばよかったんだ。

きっとそれが、今だったんだね。


あたしたちはどちらからともなく手を伸ばした。

あたしの左手と真澄の右手が触れ合う。黙ってそっと握りしめた。


夕陽が今落ちてゆく。その中を、ゆっくりと二人は歩いていった。




           <了>  ご愛読ありがとうございました。


北川圭 Copyright© 2009-2010 keikitagawa All Rights Reserved

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