憧れ
目的の場所に着いたサフィラスは、車から降りた。
離宮の周りには、巨大なヤシの木がそびえている。
夏に来た時は、抜けるような青空にヤシの木が映えていた。
しかし身を切るような冷たい風が吹く今、ヤシの木は曇天に突き刺さる杭のようだった。
白亜の壁は灰色にくすみ、花のない庭園は色を無くした。
アプ川からひいて造った池は凍り固まっている。
サフィラスは玄関ホールの扉を開けた。
円形のホールは吹き抜けになっている。両端に2階へ上がる階段がある。
すると、慌てた様子のメイドが、2階から駆け下りて来た。
ちょうど良いとばかりに、サフィラスはメイドを捕まえた。
「姉様はどこ?」
メイドは慌てていた。しかし自分を捕まえたのがサフィラスだとわかると、サフィラスの袖を掴んで引っ張った。
「何? こっちなの?」
メイドは口をパクパク動かすだけで何も言わない。
「何さ。僕は姉様に会いに来たんだ」
サフィラスは苛立った。
一刻も早くアグノティタに会いたい。そして、以前のように過ごすのだ。
すると、必死になってサフィラスの袖を引くメイドから、涙がこぼれた。
「え? 何、どうしたの?」
メイドはアグノティタに憧れていた。
アグノティタが結婚した時には、赤い刺繍入りのハンカチを手に入れた。
王家が発売した物ではなく、安物のハンカチに、自分で刺繍した物だ。
安い木綿のハンカチと、赤い糸を買うのですら、爪に火を灯すように節約して買った。
そのハンカチは宝物だった。
貧しいだけの、楽しいことなどひとつもない人生の、唯一の支えだった。
家には、莫大な借金があった。
元は貴族だが、父は事業に失敗し首を吊った。
母は父の後を追った。
残されたのは幼い弟だけだ。そしてその弟は、病を抱えている。
唯一の家族である弟を救うため、イーオンの申し出を受け入れた。
憧れのアグノティタに仕えることができる。それだけで、夢のような幸運だ。
ふたつ返事で受け入れた。
大金を手に入れる代わりに、声を失った。
それなのにアグノティタは優しく語りかけてくれた。
答えることは出来なかったが、嬉しかった。
何も答えなくても、アグノティタは話しかけ続けてくれた。
いつも気遣ってくれた。
寒くないか。仕事は辛くないか。
娯楽のない地に閉じ込めてすまない。
お腹は空いていないか。
何が好きか。
食べるものは、音楽は、好きな人は。
いつも笑顔を絶やさず、楽しい話しをしてくれた。
こんなにも気遣ってもらったのは、生まれて初めてだ。
そして泣いてくれた。彼女の首の傷を見て泣いてくれた。
アグノティタが悪い訳ではないのに、泣いて謝ってくれた。
本当に苦しいのは、アグノティタなのに。
首に巻くハンカチを握りしめる。ずっと大切にしてきた。白い生地に、赤の糸で刺繍した、宝物のハンカチ。
それをもぎ取り、喉元をさらけ出す。
「君……。口が?」
メイドは音の出ない喉を必死に震わせた。
ひとつの言葉を繰り返す。
サフィラスは唇を読んだ。
『た・す・け・て』
「誰を? 何があったの?」
メイドが2階を指差す。もどかしそうに、次の言葉を繰り返しす。
『お・く・さ・ま』
奥様と言えば、離宮においてひとりしかいない。
「姉様? 姉様に何かあったの⁉︎」
サフィラスは飛び上がった。
メイドはサフィラスの腕を引いた。メイドに導かれるまま、サフィラスは進んだ。
離宮の最奥に到達すると、メイドは手を離した。
「ここかい?」
メイドが頷く。
サフィラスは迷わず扉を開けた。扉の中にいたのは、血まみれのイーオンだった。