怯え
扉が開き、女がひとり入ってくる。
アグノティタの身の回りの世話をしてくれる女だ。
名前は知らない。
名前だけではない。アグノティタは彼女について、何ひとつ知らなかった。
離宮には、今までアグノティタについていた従者はひとりもいなかった。
全てイーオンが新しく手配した。
アグノティタは女に色々と話しかけた。
「今日はいいお天気ね」
「寒くなってきたから、暖かくして過ごしてね」
「こんな辺鄙な所じゃ、あなたも退屈でしょう」
話す相手が女しかいないこともある。
仲良くなって、あばよくば脱出するのを手伝って欲しい。そういう打算もあった。
せめて、アウラがどうしているかだけでも教えて欲しかった。
しかし女は、頑なに口をきかなかった。
人は、ここまで無言になれるものだろうか。
アグノティタは不思議だった。
イーオンからの指示があったとしても、何かの弾みで声を上げることくらい、あってもいいはずだ。
しかしそれもない。
機械のように動く女を、アグノティタはじっと観察した。
するとアグノティタは、あることに気付いた。
女はいつも、同じスカーフを首に巻いている。
お気に入りなのだろうか。
話の突破口を探っていたアグノティタは、これだと思った。
今日も同じスカーフを巻いている。
アグノティタは、女の首元に手を伸ばした。
「素敵なスカーフね」
別に触ろうと思った訳ではない。話のきっかけにとした、何気ない仕草だ。
しかし彼女はアグノティタの手を激しく払った。
その勢いにアグノティタは驚いた。払われた手がピリピリと痛い。
彼女を見ると、スカーフを抑え、うずくまっていた。
怯えている。
肩を震わせ、身を縮ませ、絶対に触れるなと全身で訴えている。
何が彼女をそこまで怯えさせるのか。
口から空気の漏れる音がしている。しかし声は出ていない。
アグノティタの脳裏に、嫌な予感が走る。
「あなた……まさか……」
アグノティタは転がり落ちるようにベッドから降りた。
うずくまる女の肩に手をかける。
「ねぇ、スカーフを取ってくれない?」
女が激しく首を振る。
「お願い。少しでいいの」
女はスカーフを握りしめ、肩を丸め、ますます縮こまった。
呼吸音だけが響く。
「……イーオンなの?」
女の肩がびくっと震える。
「イーオンには言わないから。お願い」
アグノティタはゆっくりと手を伸ばした。
スカーフを外す。
「酷い……」
女の喉には、大きな傷があった。
おそらく声帯を切り取られた跡だろう。
「私のせいなのね……」
余計なことを喋らせない為、イーオンがしたのだろう。
アグノティタは泣いた。泣くことしか出来なかった。
どう詫びればいいかわからない。
アグノティタが出来ることは、何もない。
「ごめんなさい」
アグノティタは女の肩を抱き、泣き続けた。