一人前の男
アウラの部屋は、結婚するまでアグノティタが使っていた部屋だ。
ここを訪れるのは久しぶりだ。
扉を開けると、甘い匂いがした。アグノティタの匂いだ。
「サフィー!」
サフィラスを見て、小さな女の子が駆けて来る。
アウラはサフィラスに抱きつくと、大きな声で泣いた。
「母様。母様に会いたい。会いたいの」
舌ったらずな声で、アウラは泣き喚いた。
いつから泣いているのか、声がしゃがれている。
サフィラスはぎゅっとアウラを抱きしめた。
「ごめんね、アウラ」
疲れて眠ってしまうまでアウラは泣き続けた。
目を真っ赤に腫らしたアウラを、そっとベッドに横たえる。
離れようとすると袖を引かれた。眠ったアウラが、ぎゅっと握りしめている。
「どうぞ」
フクスムがベッドの横に椅子を持って来た。
「ありがとう」
サフィラスは腰掛けた。
「全く。参ってますの」
腕組みをしたフクスムがため息をつく。
「アグノティタ様を求めて1日中泣いていますのよ」
「いつから?」
「アグノティタ様が離宮に移られからずっとです。こんな頑固な子、初めて」
フクスムは、恨みがましそうにサフィラスを見た。
「サフィラス様も、ちっとも訪れてくれないし。お忙しいのは承知しておりますが、少しくらいアウラ様をお慰めしてくれてもよろしいじゃありませんか」
「ごめん。知らなかったんだ」
するとフクスムは驚いた。
「サフィラスが? 離宮に移る前、挨拶などなかったのですか?」
サフィラスは首を振った。
優しくアウラの髪をなでる。柔らかな金髪が、アグノティタにそっくりだ。
「よく似ておいでですね」
「ん?」
「サフィラス様の幼い頃にそっくり。姪ですものね」
サフィラスは、自分が赤子の頃からフクスムがアグノティタに仕えていたことを思い出した。
「もっともアウラ様と違い、サフィラス様はとても聞き分けの良い子でしたが」
「違うよ」
「はい?」
「聞き分けが良かったんじゃない。言いたいことも言えなかったんだ」
サフィラスの前には、常に兄の姿があった。
完璧で、臣下から好かれ、王になるべくして生まれた人間。それが兄だった。
兄の背中はいつも偉大だった。
サフィラスなど無能で、役立たずで、存在するだけ無価値だ。兄の背中はそう物語っていた。
せめて足手まといになりたくない。その一心で、サフィラスは自分の意見を押し殺し、主張せず、埋没するように生きてきた。
しかし今は違う。
知識を得た。アイディアもある。自分にも王家の為に出来ることがある。兄とやり方は違うが、自分も国に貢献出来る。
アグノティタが離宮に行ってしまったことは悲しいが、良い機会かもしれない。
サフィラスはアグノティタを愛しているにも関わらず、ルウチと関係を結んでしまった。
何も覚えていないが、それは言い訳にならない。起きてしまったことは変えられない。
昔のようにアグノティタと接することは出来なかった。
死に別れた訳でもあるまいし、会おうと思えばいつでも会える。今はもっと、自分を高めるべきだろう。
アグノティタの前に出ても恥ずかしくない、一人前の男になるのだ。サフィラスはそう思った。
サフィラスの袖を握りしめる小さな手をゆっくり外す。
「また来るね」
アウラの額に優しくキスをする。
するとフクスムが言った。
「そういえば、預かり物があったのです」
「預かり物?」
「離宮に移る前、アグノティタ様が注文していた物です」
フクスムはワードローブを引っ掻きまわし、一揃えのスーツを取り出した。それは紺青色の喪服だった。
「アウラ様とお揃いでしたの。お父様のお式には、間に合いませんでしたね」
フクスムはしんみりと言った。
「お祖父様もお母様も突然いなくなって。お可哀想に……」
フクスムはアウラを見つめた。サフィラスが疑問に思う。
「突然?」
「ええ」
「姉様は突然いなくなったの?」
「そうですよ」
「僕はともかく、アウラまで?」
「オムニア様の崩御の報せを聞いて、ショックで倒れられたそうです。そのまま医師の判断で離宮に向かったとか」
「ちょっと待って。倒れた所を見ていないの?」
「ええ。面会できる状態ではないと。あれから随分経ちますが、容態は良くなったでしょうか……」
「それも知らないの? どうしてフクスムは付いて行かなかったの?」
幼少の頃よりアグノティタに仕えているフクスムがお供をしないのは、おかしいと思った。
「自分よりも、アウラ様に付いていて欲しいと頼まれまして」
そう言われたら、フクスムは断れないだろう。
「それ、誰に言われたの?」
「ですから、アグノティタ様です。アグノティタ様は自分の容態より、アウラ様の心配ばかりしているそうです」
フクスムは思わずこぼれた涙をぬぐった。
「それも直接聞いた訳じゃないんだ」
「え?」
「いや、いい。ごめんね」
フクスムは釈然としない顔をしていた。
「じゃあ、また」
「アウラ様に、またお顔を見せに来てあげて下さいましね」
「うん」
フクスムの丸く分厚い肩を叩き、サフィラスは部屋を後にした。
(兄様に会わなくては)
サフィラスは閣議室に向かって歩きだした。