ワイン
王の寝室から飛び出したサフィラスは、階段を駆け下りた。
居館から出て、中庭に入る。
中庭には、秋の草花が彩りを添えている。
中庭を突き抜け、中央の塔に入る。客室やダンスホールを抜け、謁見の間を通り過ぎる。
走って走って走って、城の境界まで来て、サフィラスは何処にも逃げ場などないことを知った。
振り返ると、高くそびえる王宮があった。
巨大で、堅牢で、荘厳だった。
自分が、ちっぽけで、矮小で、無力な存在だと思い知らされた。
サフィラスは叫んだ。
泣き、叫び、喚き、吐いた。
戸惑った門衛たちが、遠巻きに眺めてくる。
吐くものがなくなり、黄色い胃液すら出なくなった頃、サフィラスは門衛に声をかけた。
「車を呼んでくれ」
サフィラスはルウチを訪ねた。
ルウチは憔悴しきったサフィラスの様子に驚いた。
サフィラスがルウチに抱きつく。
「僕は、一体何がしたかったのだろう……」
ルウチの鎖骨に顔を埋め、サフィラスは泣いた。
「姉様の力になりたい。それだけだったのに……」
ルウチは己の鼓動がサフィラスに聞こえないかと心配した。心臓がまるで早鐘のようだ。
「姉様……。父様……」
サフィラスはしくしく泣いた。まるで、母とはぐれた子どものようだ。
王の崩御を知らせる鐘は、街中に響いている。もちろんルウチも聞いていた。
ルウチはサフィラスを優しく抱きしめた。
赤子に戻ったように、サフィラスは泣き続けた。
ルウチはサフィラスをいつもの部屋へ連れて行った。ソファに座らせても、サフィラスはルウチにしがみついたまま泣いていた。
サフィラスが動かなくなったので、ルウチはサフィラスが眠ってしまったと思った。
前髪が額に張り付いている。
そっとのけると、泣き腫らした目が現れた。長い睫毛が濡れている。
(美しい顔……)
ルウチは思った。自分とは全く。
客はルウチのことを美しいと言う。しかし自分では少しもそうは思わなかった。
肌の色は暗いし、瞳も髪も真っ黒だ。華やかさのかけらもない。
それに比べ、サフィラスの肌は透き通るように白かった。
生まれたての赤子のように滑らかな肌をしている。
化粧を塗りたくり、荒れた自分の肌とは大違いだ。
(こんなに美しい人がいるなんて……)
ゆっくり頭をなでると、サフィラスが目を開けた。
「起きていたのですか」
「突然ごめんよ」
サフィラスは恥ずかしそうに笑った。
身を起こし、ソファに座り直す。
ぴったりと密着していた身体が離れ、冷たい空気が流れた。
途端にルウチはとてつもない悲しみに襲われた。
離れてはいけない。ふたりはずっと一緒でなくてはならない。
何故なら、ルウチの魂は、サフィラスを求めているからだ。
ルウチは深々と頭を下げた。
「お父様のご冥福をお祈り致します」
サフィラスは「うん」と言った。しばし沈黙が流れた。
「愛する人と一緒になれる人は幸せだね」
サフィラスが言った。
「え?」
「僕はダメなんだ」
ルウチはサフィラスを見つめた。
「僕は永遠にひとりだ……」
サフィラスは遠い所を見ていた。視線の先に、愛する人がいるようだった。
ルウチは身が千切れそうな思いに駆られた。
サフィラスを慰めたい。サフィラスを孤独の淵から救いたい。少しでも、サフィラスの慰めになりたい。
「喉が渇いた。何か飲める?」
サフィラスは恥ずかしそうに目をぬぐった。
「はい」
備え付けのバーカウンターから、液体の入った瓶を取り出す。
デキャンタに中身を移し、テーブルに運ぶ。
グラスに注ぎ、サフィラスに渡す。
サフィラスはくぃと飲み干した。
「変わった味のジュースだね」
サフィラスは手に持つグラスを見た。赤紫の雫が垂れている。
「お気に召しませんでしたか?」
「いや。甘いのに、どこか干し草のような香りがする。舌触りも滑らかで、絹みたいだ。こんなに美味しい葡萄ジュース、初めて飲んだよ」
「それはようございました。おかわりはいかがです?」
「うん、貰おう」
たくさん泣いて喉の乾いていたサフィラスは、何杯も飲んだ。
バーカウンターの上に置かれた空瓶には、この店で扱っている中で、最高級の赤ワインのラベルが貼られていた。