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第八話 苦い思い出

結局、あの日の戦闘は明朝まで続いた。


長野軍が決死の猛攻を仕掛けたが、それを勝頼軍は何とか跳ねのけた。

しかし、長野方の事実的勝利という形での終結。武田方の損害が大きすぎたのだ。

一時は退却も考えられたが、武田の援軍300が駆けつけて一気に勝頼方に傾いた。


勝頼は一人小高い丘に立つ。

そこからはこの前の戦闘が起こった野原が見下ろせる。

戦闘後、勝頼軍は城から離れたところに陣を張り直した。


勝頼はただ、ぼーっと野原を見つめて立ち尽くすのみ。


「若、向こうの使者が参りました。」


その声でやっと現実に引き返される。


「ああ、今行くよ。」


***************************************


「我が殿、長野業盛は和議を結びたいとのことでその旨を諏訪勝頼殿に申し上げに来た所存です。」


「この勝頼、業盛殿と同じ思いにござる。此度の戦、長野殿の戦いぶり敵ながらあっぱれなものであった。」


「ありがたき、お言葉にございます。」


この戦は、長野方の和議申し立ての上、両者合意によって終結という形を迎えた。

ただ、世間の評価は武田が長野の城を攻め落とせなかったというものになるだろう。


和議成立後、ただちに勝頼軍は撤退を始めた。

信濃高遠の地に帰るために。


「あーあ、これじゃ死んだあいつの顔が浮かばれねぇな」

「武田軍は負けないはずじゃなかったのかよ。」


味方の兵たちの愚痴があちこちから聞こえる。


「おのれ、ぐちぐち言いおって。しっかり歩かぬか!」

ギリギリと歯を鳴らして、智晴が言う。


「相変わらず怖ぇー」


敵との戦いが終わったっていうのに今度は味方に怯えなきゃいけないんだから兵たちも大変だよな。


「寄せ、智晴。兵たちの言い分も分かる。全てはこの勝頼が不甲斐ないからだ。」


「しかし、殿…」


俺は はぁ と大きくため息をつく。この気持ちが馬に伝わってなのか心なしか足取りが重い。


後ろから、カポカポと速い足取りの馬がやってくるのが分かった。


「まったく、私を置いてくなんてひどいですよ。若」


「じいか。」


じいには戦後処理を最後まで頼んじゃったからな。ここまで飛ばして追いかけて来たんだろう。

冗談交じりで元気だな。じいは。


俺から思った通りの反応が返ってこないことを察してかじいの表情が少し真面目なものになった。


「若、落ち込むことはありません。此度こたびの戦負けた訳ではないのですから。」


俺は手綱たづなを強くぎゅっと握る。


「俺は、戦を甘く見ていた。今まで鍛錬を積んできたんだから余裕だろうって。

 調子に乗ってたんだ。でも、いざあの場に立ったとき、あんなに大口叩いたのに怖くてたまらなかった。死ぬんじゃないかって。そして、この手で人を殺すっていうことがどんなに恐ろしいことかって気づいたんだ。じいの言う通りだったよ。俺は浅はかだった…」


じいはそれを聞くと優しい笑顔で微笑んだ。

「若、それに気づかれただけで立派でございます。誰でも最初はそうなんです。怖くない人間なんておるはずがないのですから。」


「じい…」

思わず泣きそうになる。


「それに、まったく同じことをじいも初陣で体験しましてな。」


「じいも?」


「ええ、当時剣術の腕には絶対的な自信がありましてな。武田家の小姓衆の中で私の右に出るものはおりませんでした。しかし、いざ戦場に出てみると私よりも弱いと思っていた者たちが活躍するどころか私は膝の震えが収まらず立ちすくんでしまいましてな。

若もお優しいところがあります故、心配になったのです。だから、ついつい口うるさく言ってしまった。こんな世話焼きのじいを許してくださいませ。」


じいにもそんなことがあったのか。



「どうしたら…どうしたら強くなれる?」


「護りたいものができれば何だって怖くなくなります。」


「護りたいもの?」


「愛すべきものと言った方が分かりますかな。まだ、若には早かったようですな。じきに分かるようになりますぞ。」


俺は子ども扱いされた気がして少しだけムッとした。

でも、そんなことはどうでもいいくらい胸の中にあった曇った何かはいつの間にか消えていた。


「そうだよな。信長倒さないといけないんだもんな。こんなところで立ち止まっちゃいられねぇーわ。」


「信長…? あの桶狭間で今川殿を倒した織田信長ですか? しかし、いくら今川を倒したと言いましても、武田の相手になるとは思えませんが…」


俺はじいの方を見てニヤッと笑った。そして、こう言ったんだ。

「じいにもいつか分かる日が来るよ」ってね。


***************************************

甲斐・躑躅ヶ崎館


「そうか。勝頼は和議を結んだか。」


「初陣にしては見事な働きだったと聞きました。大将級の首は取れなかったとのことですが。」


「あの長野業正の城ぞ。元より勝つなどとは考えておらん。それに初陣で勝ったからと言って次の戦で首を取られては意味がないからな。生きて帰れたのを褒めてやるべきぞ。」


「では、父上は勝頼を捨て駒として使ったと?」


「それは聞こえが悪いな。勝頼とて儂の可愛い子の一人じゃ。武田の先陣を切らせたと言ってくれ。」


「…このまま長野方に総攻撃を仕掛けるのですか。」


「いや、向こうの兵や民は我ら武田の軍を跳ねのけたと勢いづいておるからな。この状況で手を出すのは策ではない。それに、今は長野に手を出していられる余裕がないからな。ゆるりと時が来るのを待てばよい。ゆるりとな。」


「…上杉ですか。」


信玄はふっと笑った。


「まぁ、そういうことよ。ところで義信よしのぶ。」


「何でございましょう。」


「勝頼も此度の戦で落ち込んでおるかもしれん。少し顔を出しに行ってはくれぬか?」


次話より日常回が続く予定です。

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