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動くと決めた以上は、足を遅くする迷いは要らない。
尾美黄鳥は『もうすぐ』との言葉を口に出したから、それが氾濫の示唆であるなら、起きるのはそう先じゃない。
尤も『行っちゃいけない』との忠告は、逆に言えば行こうと思えば行けるくらいの時間は残っているから、されたんだと思う。
もちろんそれだって少しも確実な話ではないけれど、いずれにしても急ぐべきであるのは間違いないから。
僕とヴィールが向かったのは、アウロタレアの領主である、ターレット・バーナース伯爵の屋敷。
普通ならおいそれと立ち入りできない場所だけれど、ヴィールが週に一回は伯爵の護衛であるシュロット・ガーナーに体術を教わる為、頻繁にここを訪れているから、僕らはなんと顔パスなのだ。
屋敷の使用人は、修練の日でもないのに訪れた僕らに不思議な顔をしたけれど、僕が伯爵に面会を申し込みたいと告げると、納得したように頷く。
実ば僕も、ヴィールの修練とは全く別に、この館を訪れる事が、そう頻繁ではないけれど、あった。
バーナース伯爵との縁がある僕は、彼から知り合いの貴族の悩みを、錬金術で解決できないかと相談される事が、度々あるのだ。
貴族と言うのは、それがどこの国の貴族であっても厄介な生き物で、他人に弱みを晒したがらない。
例えばの話だが、自らの屋敷に高名な医者を招くだけで、あそこの当主は病を抱えてるんじゃないか、次代は病弱なんじゃないかと噂されてしまう。
故に彼らは何らかの悩みを抱えても、それを可能な限り秘密裏に解決したがるので、口が堅くて実力のある錬金術師というのは、貴族からは重宝される。
まぁ僕は、厄介な生き物である貴族の依頼なんて、あまり引き受けたいとは思わないのだけれど、色々と世話になっているバーナース伯爵を通してであるならば、彼らの悩みを解決していた。
つまり簡単に言えば、僕はバーナース伯爵には幾つかの貸しがある。
自分一人で、……いや、ヴィールも一緒だけれど、僕らだけじゃどうにもならない事態に対処しようというのなら、これ以上に便利なコネは、少なくともアウロタレアの中にはないだろう。
「さて、実に珍しいね。私からでなく君から、しかもヴィール君も一緒にお願いがあるなんて。いやぁ、どんな頼みをされるのか、怖くて、楽しみで仕方ないよ」
バーナース伯爵は笑みを浮かべて、僕らを彼の私室に招き入れる。
もちろん彼の背後には、護衛のシュロットが立っていて、僕の目からは一分の隙も見出せない。
以前、シュロットと手合わせをした時は……、そりゃあ酷い目に合ったっけ。
怖くて、楽しみと言ったバーナース伯爵の言葉は、恐らく本心だと思う。
彼はそれくらいに、僕やヴィールを評価してくれている節があった。
この人は、貴族であるにも関わらず、そうやってチラリと本心を垣間見せるから、周囲の人間を自分に引き寄せる引力を持ってる。
「どうやらもうすぐ大樹海の氾濫が、南で、……ペーロステー辺りで起きるのではないかと、判断しました。僕のアトリエのポーションの在庫を提供しますので、輸送の手配をお願いします」
用件は、単刀直入に。
イルミーラは大樹海と戦う武の国だ。
その戦いにおいて、迂遠な物言いは好まれない。
たとえ相手が貴族であっても、イルミーラの貴族は、武家であるから。
「なるほど。その根拠について詳しく知りたいところだけれど、……ふむ、しかし先に、一つ聞きたい。それで君に、一体どんな益がある?」
安値であっても買取である供出とは違って、僕の言った提供は、無償で差し出す事である。
要するに身を切るばかりで、僕には何ら見返りがない。
自分の損にしかならない事を、町の領主を動かしてまでしようとするのは何故なのか。
バーナース伯爵は僕に、そう問うていた。
「益はあります。無償で提供するからこそ、それが本当に起きるかもしれないと、単なる商売の口実でないと、貴方に信じて貰えるかもしれない益が。それに何より、人が大樹海と戦うとはどういった事かを、この子に教えられるという、他の何にも代えがたい益が、あります」
そう、提供するばかりでも、益はあるのだ。
彼が信じて、輸送を引き受けてくれるなら、僕はヴィールと共にポーションを増産するだろう。
錬金術師の戦い方は、即ち物資の生産である。
前回、アウロタレアを襲った氾濫では、僕は前線で戦ったけれど、あれはアトリエが近くにあり、しかもディーチェという腕のいい錬金術師がそこで物資の生産を担ってくれていたからで、僕が一人で他所の町に赴いても、あの時の程には戦えない。
マジックバッグの中身が尽きたら、補充ができなくてそこまでだ。
故に今回は、錬金術師としての本当の戦い方を、ヴィールに教えるこの上ない機会だった。
以前の氾濫の時は、ヴィールの世界にはまだ僕とディーチェしかいなかったけれど、今は彼も多くの人を知っている。
錬金術で作るアイテムが、その多くの人の命に繋がると、ヴィールにもきっとわかり易い。
「ふふふ、そうか。ヴィール君に大樹海と戦う姿を見せる為か。あぁ、それなら君の言葉に疑う余地は欠片もないな。わかった。私もその前提で動くとしよう」
本当に楽しそうに、バーナース伯爵はそう笑って、隣に立つシュロットに何らかの指示を出す。
どうやら彼は、僕が想定していた以上に、本格的に動いてくれるらしい。
これで何も起きなかったら、間違いでしたでは済まないなぁと、僕も内心で溜息を吐く。
尤も、何も起きなかったら、それが一番ではあるのだけれども。
話が済めば、僕はすぐに席を立つ。
アトリエの倉庫に溜めてあるポーションの在庫を運び出さなきゃいけないし、更に増産する為に、素材も買い集めて回らなきゃならない。
カータクラ錬金術店にも、素材の都合がつかないかを、尋ねてみた方がいいだろう。
時間は幾らあっても、足りなさそうだ。
ふと、そういえば僕は僕の益は示したが、バーナース伯爵には、動く事による益はあるのかと、疑問に思う、
今すぐ、という訳にはいかないが、この件が終わってバーナース伯爵とゆっくりお茶を飲む機会でもあれば、どうだったのかを、聞いてみようか。





