春へ恋う
彼は不思議で儚く、冷たくて美しい雪のようで、そしてとても温かな人でした。
これは後に邪気を払い加護を与えるものとして城や時代の名に用いられることとなる、春と名乗った彼のお話。
皆様初めまして。私の名は白と申します。随分と懐かしい記憶を思い出してしまったので、良ければ私の拙いお話にお付き合いくださいませ。
それはもうずっと昔のお話です。
私がまだ若かった頃、聚楽第という当時の関白様がお建てになられた政庁に勤めておりました。先祖の代より平凡な平民生活を送っていた私がそのようなとても立派な職場に雇っていただけたことは、本当に縁が良かったとしか思えません。
職務内容は機密事項のため詳しくお話できませんが、私でも出来るものでしたのでそう難しいものではありませんでした。本当に何故雇ってくださったのか今でも疑問です。
そうして勤め始めてから数年後、聚楽第が破却されることとなりました。世が世でしたので色々な方面からの思惑があってのことだったのでしょう。
仲良くしていただいた先輩や同僚の方々は重要な仕事を任されるような優秀な人ばかりでしたので、危険が及ぶかもしれないと上司の伝手で違う土地へと移っていかれました。
当時は通信手段もあまり使い勝手の良いものではありませんでしたから、その後彼等がどうなったのかはわかりません。ただ、部下を大切にしていたあの上司は変わらず関白様の下立派に勤め続けておられたそうです。
さて聚楽第破却の時、私は上司の計らいで伏見城へ向かうこととなりました。下っ端のような存在でしたので、他の土地へ移るより関白様の権力下である此方の方が安全だろうとのお考えからでした。信頼する上司の計らいといえど新しい勤め先に不安はありましたが、職務内容は聚楽第でのものと大差ありませんでしたので大変助かりました。
異動してから一年ほどして、後に「慶長伏見地震」と呼ばれる地震が起こりました。伏見城の天守上二層が倒壊する大きなものでしたが、運良く厨に居た私は生き長らえることが出来ました。深夜に起こった出来事でしたので、唯一健在していた厨に同じく生き延びた方や御無事であられた城主様が集まり身を寄せ合って一夜を明かしました。
地震による被害は予想以上のもので、一緒に勤めていたものは少なくとも五百名以上が亡くなられたと聞いています。本当に私は運が良かったようです。
その二日後には生き延びた者達で新たな本丸の作事に着手していました。幸いにも火の手が上がらなかったため、建設資材の再利用で三ヶ月ほどで完成致しました。
ご自分も被災されたに関わらず、聚楽第での元上司が心配して様子を見に来られましたが、あまりの建設の早さに「君達・・・驚異のスピードだな。」と珍しく驚いた顔をされていました。
私も元上司がご健在のようで大変安心したのを覚えています。元上司の彼はその後直ぐ城主様の下へ向かわれたので、忙しい中元部下の私に時間を割いてくださったことに大変感謝致しました。
それはある日突然のことでした。
その日の仕事が早く終わりましたので自室に戻る道すがら、伏見城内に植わっている桃の木の下に若い男性がひっそりと佇んでいるのを見つけました。
お見かけしないお顔でしたので、よもや迷われているのではと思った私は彼の方へ足を進めました。
春先である今、桃の木は可愛らしい薄桃色の花をつけています。薬用として珍重されているため随分と立派な木でしたが、周りに何もないためか少し寂しげな雰囲気が漂っていました。
変わらずに佇んでいる男性は私が近づいても気づかないようでした。数歩手前で立ち止まった私はそっと声をかけました。
「もし、どうかなさいましたか?」
男性はゆっくりと此方へ振り返ったかと思うと、それはもう綺麗な鶯茶色の瞳を大層大きく見開かれました。
暫し沈黙の後、あまりに綺麗な瞳でしたので変わらず目を見開いて沈黙し続ける彼へ再度声をかけました。
「とても素敵な瞳の色ですね。」
今思うとよく怪しい者だと疑われなかったなと思うような言葉でしたが、彼はその声にやっと口を開きました。
「–––ありがとう。君も綺麗な髪をしているね。美しい濡羽色だ。」
そう彼は微笑んで言いました。
とても容姿の整った方でしたので、私はその言葉に赤面してしまいました。ええ、それはもうお綺麗な方でしたね。遠目では分かりませんでしたが、身に付けられている着物からも身分の高い方なのだとわかりました。
伏見城には城主様にお会いに来られるご身分の高い方が多くいらっしゃいます。普段お見かけすることはありませんが、城に使える者として案内をさせていただくことはしばしばありました。あれは大変光栄ですが、緊張して粗相しないか心臓が爆発ものの一大任務でしたね。
彼も城主様にお会いに来られた方のお一人かと考えていますと、彼が再び口を開きました。
「桃の花を見ていたんだ。とても綺麗に咲いていたから目を惹かれてね。君は桃は好きかい?」
「ええ、とても。儚くも優しい花だと思います。色付いた雪のようですね。」
私の返答に彼は気を良くしたのか笑みをさらに深めました。
「それは何より。僕の名は春と言う。君はなんと言うんだい?」
「白と申します。––––春様、もし迷われているようでしたらご案内させていただきますが如何致しましょう?」
「ああ、ありがとう。でも大丈夫、今日はこの木を見に来ただけだから。でも君とまた会えたらこうして話し相手になってくれると嬉しいかな。」
そう言う彼とまた話をする約束をし、その日はそのまま帰宅しました。帰り際そっと振り返った先の彼はやはりひっそりと佇んだままでした。
不思議な縁ができたものだと思いつつ、普段その場所を通らない時間にお会いしましたのでまた会うことはないだろうと考えていました。
ですが翌日またお会いすることになったんです。本当に何故でしょうね。彼は初めてお会いした日から毎日同じ場所に佇んでおりました。どうやら一日中桃の木の下にいらっしゃるようで、私の終業時間がどんなに変わろうと必ず同じ場所で少しばかりの会話を楽しみました。
会話の内容は本当に些細なものばかりでしたが、私にとっても大変素敵な時間を過ごさせていただいたと思います。
その内に、ちょっと失礼ですが彼は少し世間知らずなところがあると気が付きました。一般的な社会情勢でも、ここ周辺の土地以外はてんでご存知ないようです。食に関しては特に顕著で、今まで何を食べられていたのだろうと思ったことは一度や二度ではありません。
私は一日中飽きもせず木の下に佇む彼を気にかけるようになりました。そう、世話焼きな性格なんですよね私って。
身分の高い方なのだろうという考えから失礼に当たらないようにしつつ、お節介を焼くようになりました。ですが彼は存外社交的なようで、私の世話焼きにも苦言を呈さず寧ろ嬉しそうなご様子でした。
彼があまりに嬉しそうにするものですから私の世話焼き精神がぐーっと顔を出してしまいました。食に疎い彼にお食事の提供をさせていただいたんです。勿論その場から動こうとしない彼用に簡単な軽食ではありましたが、職業柄位の高い方へお出しすることもありましたので失礼な物は作っていないと自信を持てます。
彼はそれはもうびっくりするぐらい大層喜んでくださいました。
普段何を召し上がられているのか再度疑問に思いましたが、それはもう本当に喜んでくださいましたのでその日からはできるだけお食事の提供をさせていただくことに決めました。特に得意であった甘味類は丹精込めて作らせていただきましたとも。きっと彼の好物になれたと思います。
話は変わりますが此処で裏話を一つ。
聚楽第の元上司––––名を「白藤」と言いますが、部下思いで優しい彼は色恋には疎いようでした。周囲からは心配の声もありましたが、聚楽第破却の目前、私の隣に座り独り言を呟くように「やっと彼女に逢えたんだ。」と言った彼はとても晴れやかな笑顔を浮かべていました。ずっと心を寄せていた方がいたのでしょう。それから私は彼と名も知らぬ彼女の幸せを願い続けております。
さて私は仕事の中で甘味を作ることがあります。巷では見かけないような珍しいものをお出しするためか、指名を受け担当させて頂く機会が多くとても名誉なことです。
そんな評判高い私の甘味ですが、実は白藤様から教わったものなんです。ある時からふと厨で作られるようになったそれはあまりに美味しく、是非にと作り方を教えて頂きました。今ではその甘味で生計を立てているようなものですので、白藤様にはいつか御恩をお返しせねばと思っております。
––––白藤様はお話しになりませんでしたが、恐らくこの甘味の作り方は彼の愛する彼女から教わったものなのでしょう。作成中の彼は酷く優しく愛おしい目をしていましたからね。
私が作り続けることで彼と彼女の想いが忘れ去られなければ良いなと、烏滸がましくも祈りつつ少しの御恩返しも込めて沢山の方に召し上がっていただいております。
そんな日々を過ごしているうち、同僚から「良い人でもできたの?」と聞かれました。恐らく私が毎日のようにご飯を作って帰宅するからでしょう。残念ながら違いますね。ただの私のお節介です。
否定の言葉を返しつつ、ふと春様について聞いてみようと思いつきました。
彼と出会ってかなり経ちますが彼自身についてあまり知っていることがありません。せめてお住みの地域がわかれば郷土料理などもお出しできると考えて、まだ訝しんでいる同僚に質問しました。
「ねぇ、最近よくお見かけする春様は何方からいらしているのかしら?」
「春様?城主様へご挨拶に来られた方かしら?そのようなお名前は伺っていないわねぇ。」
「そうなの?毎日桃の木の下に佇んでいらっしゃる方よ。城主様へのご挨拶ではなく木を見にいらしてると仰ってたわ。」
同僚は「桃の木の近くに?」と何かを思い出そうとしていましたが、数秒後溜息を吐きました。
「駄目だわ。昼間通ったはずだけど、お見かけした人は居なかったように思うわね。」
「お客様のお名前は把握していると思っていたけれど・・・。」と少しばかり落ち込んでしまった同僚に明日、春様の元へ一緒に伺う約束をしその話は切り上げました。
翌日は雨のそぼ降る、春先にしては少し肌寒い日でした。
約束をした同僚と伴い春様の元へと向かいます。普段佇まれている桃の木の近くまで行きますと、いつもお見えになるお姿がないことに気がつきました。
私が訪ね初めて彼がいらっしゃらないことは一度もありませんでしたので大変驚きました。勿論、今日のように雨の降る日でも彼は変わらずおりました。濡れ鼠になりながらも佇み続けていた彼に、恐れ多くもお小言を言ってしまったことだってあるんですよ。それでも彼は楽しそうに笑うばかりでしたので、仕方なく雨傘を一本差し上げました。それから雨の日は私がお渡しした雨傘をくるくると楽しそうに回しながら桃の木の下で佇んでおられましたね。全く懲りないお方ですよ。
その日はいらっしゃらないものはしょうがないと同僚と共に引き返しました。
ですが不思議なことに、その後何度同僚と伴い向かってもお会いすることは叶いませんでした。同僚は「お帰りになられたのかしら?」と早々に納得し職務に戻っていきましたが、実は不思議なことはこれだけではありませんでした。
同僚と伴い伺った初めての日、私の終業時間が過ぎ再度彼の元へ行くといつもと変わらずくるくると傘を回しながら佇む春様がいらっしゃったんです。それはもう二度見してしまいましたとも。あれ、いつの間にと首を傾げつつ彼に声を掛けました。
「春様、雨の中にずっといらしているとお風邪を召してしまいますよ。ところで本日は何方にいらしたのですか?昼間にお伺いしましたが珍しくいらっしゃらなかったので驚いてしまいました!」
「おや白、今日もご苦労様。折角訪ねてくれたのに悪かったね。雨で視界が悪く見えなかっただけじゃないかな?僕はずっとここにいたもの。」
私の心配をひらりとかわしつつ、彼はそう答えました。小降りの雨で視界が悪く見えないなんてことありませんが、嘘をつくような内容でもないと思いましたので「そうでしたか。」と返し普段の他愛ない会話に話題を移しました。
しかし前述した通りそれから何度同僚と伺ってもお会いできず、かと思えば私の終業時間にはお会いできましたので流石の私もこれはおかしいぞと疑問を抱きました。
そうして私は一つの質問をしました。
「春様。もしかして人見知りでいらっしゃるんですか?」
彼も私がここ数日で訝しんでいたのを感じていたのか苦笑してあっさりとこう言いました。
「おや、ばれてしまったか。今まであまり人と話す機会がなかったせいかどうにも苦手でね、つい隠れてしまったんだ。君の同僚には代わりに謝っておいてくれないか。勿論、こんな性格なわけだからもてなしも必要ないと伝えて欲しいな。」
彼は照れ臭いのか気恥ずかしげに頬を染めてしまいました。そこでふとそれならば私は大丈夫だったのですかと伺いますと、
「だって君は最初に僕に声をかけた時、僕の瞳を褒めてくるんだもん。驚いて緊張なんて何処かへ行ってしまったよ。」
そう彼はさも可笑しそうに笑われました。
季節は過ぎ、出会った頃の春先の肌寒さが優しく感じられるほど本格的に寒い冬の季節がやってきました。
相変わらず彼とは仕事終わりにお話をさせていただく仲です。春には共に桃の花を愛で、夏には私が実を使った甘味を作り、秋は彼に実の種で薬の煎じ方を教わり、そうして冬には寄添って枝に積もった雪を眺めました。
彼が一日中佇まれることは変わりませんでしたが、お互いの心には変化がありました。少しずつ少しずつ同じ時を過ごすうち、ひっそりと小さな桃の花のように愛しさがぽつりぽつりと心に色付いていきました。
そんなある日彼は言いました。
「春を迎える前に、此処を離れなければならない。」と。
此処でのお勤めが無事に終わったのでしょうか。結局桃の木を眺めるばかりで他にご用があったのかわかりませんでしたが。唐突なお話でしたが私に引き止める術はありません。私のこの淡い想いには蓋をしました。
彼と別れる春を迎えるまで私達は変わらずに会話を続けました。隣に温もりのあるいつもと変わらぬこの日常がずっと続いていくように感じられましたがそれは唐突で。
ある雪解けの輝かしい日に、佇んでいた彼はいなくなりました。
そうして彼とはそれきり。
彼が佇み見上げていた桃の木も何故かその後直ぐに枯れてしまいました。
懐かしむように桃の木の植わっていた場所へ訪れます。仕事が終わると必ず其処を通ることは、もう習慣のようなものでした。
春を迎える優しく暖かな風に乗り、何処からかひらりと何かが私の足元へ落ちてきました。
それは一枚の手紙でした。手に取ってみると驚いたことに宛先は私、そして差出人は
「––––––––春様?」
その手紙は春様からのものでした。いったいどうやって届いたのか皆目検討もつきませんが、私は手紙に目を通しました。
白へ
今日もお勤めご苦労様。元気にしているかな?
先ずは、一年間僕の話し相手になってくれてありがとう。君が初めて僕に声をかけた時、僕は本当に驚いたんだ。なにせ僕は"人に見えない存在"だからね。
僕は桃の花の霊なんだ。寿命であと一年程しか生きられないと悟ったあの桃の木が最後の気まぐれに僕を作った。いつも佇んでいたのはそのせいさ。本体からあまり離れることができなかったし、其処以外特に興味もなかったからね。
だから何人も僕の近くを通り過ぎた人はいたけれど、声を掛けられたのはあれが初めてで驚いたし嬉しかった。人見知りって言うのも強ち間違いではないけれど嘘だよ。そもそも人に見えない存在だから接触することすらできないしね。
君との一年は本当に素晴らしい時間だった。君に想いを残してしまったことは申し訳ないと思っている。消えるとわかっていて抱いていいものではなかったね。
だからこそ、この手紙を君に残そうと思う。白、君は桃の花の花言葉を知っているかな?色々あるけれど君には「気立ての良さ」この言葉が似合うと思うな。女性を敬う象徴である桃の木から生まれた僕が愛した女性だ。君はとても素敵で可愛らしいよ。
君には幸せな未来が待っている。素敵な出会いがある。君が僕を想う気持ちは全て僕が貰っていくから、どうかこれからの人生を幸せに生きてほしい。
美味しいもの楽しいこと人の温かさ、沢山の素敵なものを本当にありがとう。
君の未来に幸多からんことを。
嘘か真かわかりませんでした。私が彼に未練を残さず自身の幸せを辿れるようにとの彼からの計らいでしょうか。
頬を伝う涙は私の気持ちを代弁してくれているようで、私はそっと手紙を胸に抱き今は亡き桃の木を見上げました。
–––––随分と長く語ってしまいました。此処まで聴いてくださってありがとうございます。でももう少しだけ宜しいですか?
あれから私は変わらずに伏見城でお勤めを果たし、そのうちにある殿方に見初められ嫁に行きました。数年もすれば子供も、後には孫も沢山できそれはもうとても幸せな毎日を過ごしました。
それでも春様のことは忘れられませんでした。いえ、現在の夫のことは心から愛しておりますよ。ただ、春先に桃の花を見かけるとぼんやりと思い出してしまうんです。
ですが春様を慕う気持ちは抱いていない自信があります。だって春様が私の気持ちも全部貰っていくと仰るんですもん。–––––もう何も言えません。
代わりに、恐らく見守り続けてくれているであろう彼へ感謝の念を抱く日々を送っております。
夢物語のような一年でしたが私の素敵な思い出です。聴いてくださった貴方も、桃の木を見ることがありましたら春様のことを思い出していただけると嬉しいです。
ぱたんっと音を立て本を閉じた私は座っていた椅子から静かに腰を持ち上げた。引っ越しに際して整理していた家の押入れから出てきたその本は、恐らく先祖が書いたものだろう。紙は黄ばみ読むのに一苦労な状態である。この内容が事実か先祖の絵空事か今となっては知る由も無い。だがずっと昔の彼らの出会いが運命的でとても素敵なものに感じられ、胸中温かな気持ちでいっぱいだった。
物の整理は懐かしいものに引き摺られ中々進まないのが難点だ。さて、続きをしなければと私は新居へ運ぶ用の段ボールへそっとその本を仕舞った。
女性の象徴である桃の花。安土桃山時代と歴史にも名を連ねる"桃"の文字。
白が愛した春であるその文字は、今日も歴史の中で多くの人を見守り続けている彼らの想いである。邪気払いの名の如く平和な日々はこのような様々な想いが募り、今は昔の歴史によって作られている。
おわり
※読了ありがとうございました。