#1
僕が彼女の存在を知ったのは、僕が高校生となってから数ヶ月経った夏だった。その頃の僕はバスケットボール部に所属していて、他校との親善試合をするために、学校から少し離れた公民館を訪れていた。そこには一般的な会議室や小ホール、母子室などがある公民館に隣接して体育館があり、部員は皆ウォータークーラーを求めて休憩時間になると公民館まで走っていた。四十分ぶり三度目の休憩を迎えた僕は、激しい練習によって火照った顔を洗面所で冷やそうと、ウォータークーラーの水をはち切れんばかりに溜め込んだスクイズボトルを抱えて、公民館の中を彷徨っていた。館内図を見つつ進むも、方向音痴の僕は思うように洗面所へたどり着くことができず、展示用パネルを壁と勘違いし曲がってしまったり、行こうと思ったトイレが故障中で使用禁止にされていたりと散々で、頭が混乱して近くの椅子に座り込む頃には、冷やそうと思ってた頬はとっくに冷め切っていた。冷めた頬に気付き、無駄足となったことに多少気を落としつつも、肌に触れて少しぬるくなった水を喉へ一息に流し込む。目に入った時計の指す時刻に自分にあまり余裕が無いことに気付くと、急いで体育館へ帰ろうとした。が、僕の思いとは裏腹にここでも方向音痴は発揮されることとなる。
練習開始の時刻から十分程過ぎても尚、僕は二階から一階へと降りる階段が見つからず永遠と構内を徘徊していた。気付けば使用禁止のトイレの前に戻っていたり、さっきまで図書室だったはずの場所がシニア交流センターになっていたりもう訳が分からなくなっていた。混乱しきりの頭に嫌気が差して手近にあった椅子に腰を落とすと、時計の指す数字が目に入って再び頭が痛くなる。
「なにしてんだよ…。」
さっきと全く同じ行動を繰り返している自分に呆れて、ため息と共に言葉が漏れる。大声を出して誰かに来ておうかとも思ったが、勝手にトイレを探しに行って勝手に迷ってわざわざ大声を上げて誰かを呼んだところで、何事なのかと聞かれた時に「方向音痴で…」と説明した時の自分の心へのダメージを考えると、顧問に叱られた方が幾分かましな気がした。ため息を吐いてから、とりあえず構内を把握するために構内図を探そうと立ち上がった。とはいえ地図が役に立ったことはこの短い人生で一度も無いのだが。通路を塞ぐように置かれた、川柳同好会の展示パネルを勝手にローラーを転がして動かすと、後ろのコルクボードに何か貼られているのが見えた。目当ての物をすぐに見つけられたと思い、己の運のよさに僕は一度目を見開くも、その期待は外れ、別の意味でもう一度目を見開くことになった。そこにあったのは構内図でもなんでもなく、一枚の写真だった。チープなリボンに飾られたその写真は、「日向ふるさとフォトコンテスト市長賞」と帯が付けられていて、そこに写っていたのは僕が普段よく見ているはずの校舎だった。教室のカーテンの隙間から漏れた光が床に零れて、その明かりの上を両手でバランスを取りながら伝って歩く一人の女子生徒。驚くべきはその構図で、一枚の小さな写真の中に、女子生徒とカーテンから漏れる光、その奥には翻ったカーテンの隙間から紫色に色付いた雲と橙の光のグラデーション。その輪の中心には真っ赤に燃える夕陽が覗いていた。その夕陽はそれだけで額縁を掛けられる程美しいのに、あえてそれをせず放課後子供のように遊ぶ女子生徒を置いたメッセージ性を僕は感じた。そこは僕が普段見ている校舎とは雰囲気は打って変わった情緒的な空間だった。
『桂 菜緒』この名前を後に僕は何度も見ることになる。
あの写真を見た後は何故か気持ちが疼いて仕方なく、風の音を頼りになんとか階段を見つけ出し、体育館へと向かうと、荷物を素早くまとめて文句を言いたげな顧問に「帰ります」と一言だけ伝え、ユニフォームのまま、試合でも出したことの無い全速力で家まで走った。家に帰った僕は、汗を拭う暇無く父の部屋へ向かった。未だ父は帰宅しておらず、隙間という隙間に本が詰め込まれた部屋は、今日もまたインクの匂いが鼻についた。雑に重ねられた本の塔と塔の間を覗いていくと、本が溢れて剥き出しになっている開けっ放しの棚の下にそれはあった。触るたびに埃の筋が出来るそれを手で軽く払うと、汗ばんだ両手でそっと包んで部屋を後にした。