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よみたんヤバたん?
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日が開け、太陽が昇っては沈む。
一週間……ついにたってしまった。
その間、美穂が夜見のそばに着き付きっ切りで看病をした。汗が出れば吹いてやり、服を脱がして体を綺麗にしてあげたり、うなされたら強く抱きしめて安心させてあげたりもした。
それでも、彼女思いは届く事なく夜見はいびきの一切を立てずに眠るのであった。
◇
夜見は混濁した世界でただ漂っていた。
ポカーンと口を開け、何もない淀んだ景色を見ていた。
紫と黒、所々に入り混じる血のような血痕を目で追う。痛いだの苦しいだの辛いだのそんな感情は全くなかった。
体があるかどうかもわからない。触ろうとしないのだから。観測しなければそれら全ての事象は無かった事になる。と言う言葉をそういえば習ったか?
過去のことは思い出せる。どこか他人行儀でまるでテレビに映る映像を眺めているような感覚だ。感動もせず、ただ眺めるだけど物語だ。
ちくりとさす胸の痛みすら感じられない永遠に幸せの世界……まさに夜見が願った世界なのだ。
空腹もなく、痛みも、苦痛も、誰かを失う痛みも、敗北を味わい歯ぎしりするあの胸の痛みも、幸せを分かち合うあの幸福感も何もかもありやしない。
そんな世界だ。
ここはそんな無にあふれた世界なのだ。
「お姉ちゃん!!」
一滴の雫が夜見の顔をと呼べるか分からないようなところに小さな、それは小さな涙が滴り落ちた。
冷たくなく、痛みもない……ただ暖かいそのひと雫……。
「お姉ちゃん!」
感じることのできる最低限度の声が耳元に届いた気がした。聞き馴染みのあるあの声だ。何度もなんども見返したドラマがフラッシュバックするかのごとくあの光景が、あの情景が、あの心が動いた瞬間が夜見の心を支配する。戻りたい、死にたくないと心臓が激しく鼓動を打つ。
混濁し色の滲み込んだ世界に一筋の青が足された。
夜見はその一点を眺めた……否凝視した。その一点の先に私の知りうる全ての事柄の答えがある気がしてありもしない、感じることもできない手をできる限り強く、強く前に出した。
「お姉ちゃん!」
手が握られた気がした。暖かくて優しい手に包まれた気がした。
まだ、やれる。まだ、負けてない!!
ありもしない足を踏み出した。死にかけていた顔に力が入る。
ビチビチと何かを突き破る。人間っていう皮を破り捨てる音がした。
歯を限界まで食いしばり、首は振るい、顔は赤く、筋肉は膨張する。
赤く熱した鉄の様に体全身から蒸気を上げた。
「お姉ちゃん!」
今度ははっきりと聞こえた。
懐かしいあの声が、私が救えた唯一の声が聞こえた。
近くにいる……。いや、横にいるかもしれない。なら何故届かない。何故見えない。何故あの子の姿がこの目に映らない。なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜだ!!!!!!!!!
藻をかきみだし、前へ前へと当てもないただの青い絵の具一滴落とされた彼の地に一歩ずつ、また一歩ずつ確実に、必然的に歩く。
決められた運命なんて糞食らえだ。このまま死んでたまるか。私は往生際の悪い女だ。何も諦めない。諦めるのは死んでからでも遅くない。まだ私は…………死んでなんかいない!!
だって、ここに心があるから。心がある限り私は死なない。
目を見張り、声を荒げ、ただの青へと手を限界まで、腕が引きちぎれてもいい、目が焼け焦げてもいい、何もかも失ってもいいだが、あの、あの声とあの温もりとあの心だけは失いたくない!!!
「……お姉ちゃん」
涙する美穂の頬にいくつもの涙が垂れている。
目は充血し、手は震えていた。目元は黒く何日も寝ていないという事が必然的にわかる。お腹は凹み、やせこけてしまった美穂は決して夜見の手を離すことはなかった。
そんな様子を扉の傍から眺めている師匠はどこかやるせないのか美穂と目を一切合わせなかった。
お気に入りのタバコの火は既に消えてしまい、残りカスを手に持ってただ虚ろな目を天井に向けていた。腐敗臭が若干鼻に付く。
腐りかけの夜見の体からは蛆虫が這う様になった。
身を焦がす様なうめき声が時折聞こえる。苦しんでいるのだろう……そのうち脳みそまで蛆虫に食われて死んでしまう。
早く楽にしてやった方が夜見にとっても美穂にとってもいい事なのだろう。だが、この子に刃は向けられない。向けたとしても殺す事なんてできるはずも無いのだ。
あの人から受け取った大切な子供……。自身の師範の約束……。死ぬ直前に託された最後の命令……ではなく『願い』だ。
どうかあの子を……。
必死に願う美穂を俺は認める事が出来なかった。
カレンはいつも通りに生活をしていた。
洗濯物を取り込み、ご飯を作り、勉強の準備をしていた。いつでもあの子が気持ちのいい服を着れるように。いつでもあの子が美味しいご飯を食べられるように。いつでもあの子が安心して日常を送れる様に……カレンは何一つ表情を変える事なく事ごとの一つ一つを毎日こなす。
それが、最前などだと……それが今の私にできる事なのだとそう信じているからこそできる事だ。
既に言葉にしていないであろう願いの言葉を美穂は嘆き続けた。
そうして、運命の時は秒針を刻むかのように訪れるのであった。




