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探偵は止まれない

作者: 水瀬洸

 二0XX年、トウキョウ。

 警察がその機能を失い、無法者が闊歩する時代、俺は裏社会に生きる探偵――という言うと耳聞こえは良いが、いわゆる『何でも屋』を生活の糧としていた。それなりの腕と、それなりの経験から、有り難いことに食いっぱぐれることはなかった。今日も、一件の仕事が終了し、報告書を携えて待ち合わせの駅のホームに来ていた。


「……遅いな」


 約束は午後十一時。しかし時計は無慈悲にも時を刻み、終電の時間に近づいていっていた。

 まさか、今更依頼放棄なのか。この一週間の成果はゴミ箱に消えるのか。一体、どれだけの経費を使ったことか。報酬を支払うときになって、駄々をこねだす依頼者がいるため、代金は報告書と引き換えになっていた。銀行振込にしてしまうと、他にも色々と不具合もある。警察が信用出来ないのと同じように、銀行も信用することが出来ないのだ。


 痺れを切らした俺は、携帯に一時的に記録してある依頼者の番号をメモリから引き出す。電話をかけてみるが、耳に聞こえてくるのは「電源が切れているか、電波が通じない場所にいるため――」という、決まったアナウンスだけだ。


 畜生。加納宏昌ともあろう者が、ドジを踏んだか。同業者に笑われるという、近い未来のビジョンが脳裏を過ぎってイライラが増す。

 最終電車がその顔を現す。これに乗らなければ、家にも帰れない。どうしたものか、と焦っていると、不意に声をかけられた。


「すみません、遅くなりました」


 待ちわびた依頼者だった。髪の毛はボサボサで、呼吸も荒い。高そうなスーツもヨレヨレで、どうにかこうにか約束の場所に辿りついた、といった体だった。


「加納さん、あの、」「頼まれていたものだ」俺は彼の胸元に持っていた封筒を押し付けると、急ぎ足で電車に向かう。「あ、加納さん!?」


 なんとか車両に身体を滑り込ませる。背中でドアが閉まる音がする。ようやく仕事が片付いたことと、終電に間に合ったことに安堵し、俺は深く息を吐いた。


 カタンコトン――単調なリズムで電車は進む。腐った社会になっても、電車は時刻通りに来る。それがニッポンの唯一の美点だとも言っているかのようだ。

 帰ったら寝よう。いや、その前にメシを食おう。次の依頼はまだ入っていない。束の間の休暇だ。思いっきり惰眠を貪ってやる。だらけてやる。


 ぼんやりと人混みの向こう側から微かに覗ける窓の外を見る。どこにそんなに真面目に働く人間がいるのか、腐った街でも首都は首都、夜更けだというのにあかりの灯っているビルが立ち並んでいる。あの部屋のひとつひとつに人間がいて、馬車馬のように働いているのか、それともただ無駄な時間を過ごしているのかわからないが、電力を使い、電気会社に電気代を払い、そしてまた電気が流れ――と、社会が循環している。腐っていても、人は働き、育み、生き、そして死んでいく。全ては神が望んだ通り、円となり、まわっている。始まりも終わりもない。惰性で人は、社会は、回っていく。


「――やめてください!」


 突然、悲鳴のような声があがり、俺は思考の世界から現実に引き戻された。視線を声の方に向けると、ちょうど俺の斜め向かいに立った女子高生が俺のことを赤い顔で睨んでいた。「やめてください、痴漢は犯罪ですっ!」


 ザワ、と周りが俺と女子高生を取り巻く。「ちょ、ちょっと待ってくれ。誤解じゃないか? 俺は何も――」「言い訳するんですか? いい大人なのに」「いや、あの」

 痴漢? 痴漢だってよ。あのオジサン、何してるんだか。やあね、これだから変態は。ていうか、犯罪者じゃねえか。


 ボソボソと糾弾する声が広がって大きなうねりになる。背中を冷や汗が伝った。どうにかして誤解を解かないと、一体どこに突き出されるかわからない。警察はあり得ないにしろ、警察の代わりに自治を行っている自警団に連れていかれたら、それこそおしまいだ。法のルールから外れたこともやっている裏稼業の人間としては、探られたくない穴もある。


「自分がしたことを認めてください」

「だから誤解だ。俺は何もしていない」

「卑怯者!」


 怒りに肩を震わせた女子高生が、突然ビクッと身体を震わせた。


 ――なんだ?


 少女の視線が下に降りる。それに誘われるかのように、俺もつられて下を見る。ギリギリまで短くしたスカートが、僅かに盛り上がっている。節くれだった指が、いやらしく少女の尻肉を撫でていた。


 ――誰だ。


 瞬時に思考が切り替わる。手の『元』を探っていくと、女子高生のすぐ後ろに立った中年の男がだらしなく眉尻を下げていた。

 俺は男の手首を握ると、そのまま捻り上げる。


「いたたたたたっ! な、なにを……っ!?」

「なにを、は、こっちのセリフだ。いい年したオッサンが盛るなよ。他人に罪をなすりつけてる間も痴漢たぁ、いい度胸してるな」

「わ、私は何も……」

「嘘っ! わたしのお、おし、り……触ってたでしょ……っ」


 勇敢な女子高生は、男の頬を平手打ちすると、「次の駅で降りて。自警団のところまで連れていってあげる!」「そんな……痴漢をしていたのはそっちの男だったはずじゃ……」「残念ながら、糾弾されながらも犯罪を続けるほど、度胸がないんでね、俺は」


 ザワザワと周りが騒ぎ出す。電車が静かに次の駅のホームに滑り込むと、少女は親父の手を引っ張って車両から降りていった。残された人間たちは、俺の顔を見ると、誰もが一様に曖昧な微笑を浮かべて下を向いた。


 ――まったく、ついていない。

 今日は厄日なのだろうか。このまま何事もなく家にたどり着ければいいのだが。

 それにしても、何かを忘れているような気がする。それが『何』なのかはわからない。でも、重要なことのような……。


 ――忘れるなんて、俺も歳を取ったかな。

 考えてみたら、あと数年で四十の大台に乗るのだ。この稼業も、そこまで続けられるものなのか。同業者には、五十間近でも仕事をしている人間はいたが、大体は引退、もしくは弟子をとったり、ノウハウを人に売ることで生計を立てている。


 俺は弟子をとるつもりもないし、人に教えられるようなノウハウもない。今のうちに貯金を作って、悠々自適な老後を送ろうか。『老後』と言うにしては、ちょっと早すぎる気もしたが。

 ……柄にもなく将来の心配をしていたら、尻を弄られる感覚がした。


 ――また痴漢か?

 というか、俺のような冴えないオッサンのケツを触って何が嬉しいのだろうか。なんとも奇妙な――とりあえず犯罪には間違いないのだから捕まえておこうかと思ったそのとき、ジーパンの尻ポケットから『何か』を抜き出された。


 財布だ。

 今度は痴漢ではなく、スリのようだ。

 サッと振り向くと、年端もいかない少年が俺の財布を持って立っていた。「お前――」捕まえようと腕を伸ばすが、隙間なく押し込まれた満員電車ではそれも容易ではない。反対に小柄な少年はその体躯を活かし、スルリと人波をくぐり抜けていく。


「くそ――待てっ」


 強引に身体をねじ込ませる。皆が不快な顔をするが、それに構っていられるほど余裕はなかった。すみません、すみません、と謝罪の言葉を口にしながら、懸命に少年の後を追う。小さくて俊敏な身体を追うのは簡単ではなく、何度か見失いながらも先頭車両まで来てしまった。運転席の見えるガラスの壁に少年を追い込むと、財布を持った手を掴む。


「何すんだよ!」

「これは俺の財布だ。それは、こっちのセリフだ」

「オッサンのモノだっていう証拠はあるのかよ」


 俺は無言で財布を奪い取ると、中から運転免許証を取り出す。「これでもお前のモノだって言うのか?」

 少年は居心地が悪そうに目を逸らす。


 よく見れば、少年はサイズの合わない服を着ていた。ダボダボのTシャツは肩からずり落ちていて、履いているジーパンも所々に穴があいている。髪の毛を見ればフケがついていて、彼が『普通』の生活を送っている人間ではないことを物語っていた。


 俺はため息を吐くと、財布の中から一万円札を一枚取り出す。「これで旨いモノでも食え」「え」突然の札の出現に、少年はぱちぱちと目を瞬かせる。「そのかわり、もうこんなことはするなよ」

 一万円札を受け取った瞬間、堪えきれなかった笑みが少年の顔に浮かぶ。――なんだ、年相応の可愛い顔じゃないか。しかし、すぐにその笑顔は消え、代わりに照れたような、バツが悪そうな微妙な表情を浮かべ、「れ、礼なんて言わないからな」と憎まれ口を叩く。


「いらないよ。単なる親父の出来心だ」


 ピン、と指先で少年の額を弾くと、俺は車両の隅に立った。窓ガラスに映った少年は、ニコニコとした笑顔を浮かべて、大切そうに金をポケットにしまう。柄にもないことをしたな、と思わないでもないが、まあ、たまにはこんな日も、悪くない。


 ――やっぱり、歳を取ったかなぁ。

 知らない人間に施しを行うなんて、昔の自分では考えられなかった。自分と他人の間に壁を作って、仕事の時だけその壁をぶち壊していた。仕事が終われば、壊れた壁も元に戻り、また独りの生活が訪れる。


 独りで探偵稼業をやっていたときは、それで大丈夫だった。独りが寂しいとか、誰かに頼らなければならないとか、そんなことは考えなかった。『寂しい』と感じるのは子供の延長だと思っていたし、手が足りなければ金を積んで他人に頼り、終わったら縁を切るといった感じで、『特別な誰か』を必要としていなかった。


 それがこうなってしまったのは――変わってしまったのは、ひとえに俺に『相棒』が出来てしまったからだろう。


 東七菜。


 俺より年下の、女性というにはまだ早い、しかし『少女』と呼ぶには有能すぎる人間。

 コンピュータに長けていて、人の懐に入るのが上手いヤツだ。ちょっとした事件がきっかけで一緒になった。最初は本当に使える人間なのか疑問しかなかったが、それが杞憂であったことはすぐに知れた。俺が心配するほど、彼女は子供ではなかったのだ。


 ――余計な手間はかかるけど。

 それを入れても、七菜は有能だった。俺がこの稼業から引退しても、彼女なら独りでもやっていけるだろう。


 しかし、若干の依存体質を垣間見てしまうときがある。俺が探偵を辞めたら、彼女も辞めそうな気がする。独立しろ、とは言わないが、俺と違ってまだ若い彼女が、歳若くして職を手放すのは、あまり歓迎されたことではない。それこそ『ノウハウを売る』『弟子をとる』ではないが、俺の仕事を見ている彼女なら――それを引いても有り余る才能がある彼女なら、立派にひとりの探偵としてやっていけると思う。


 ――やっぱり、歳だな。

 他人の心配までしてしまうなんて、本当に今日はどうかしている。

 ちょっとだけ厄介だった依頼が無事に終了して、肩の力が抜けたのだろうか。理由はわからないが――もしかしたら、先程の勇敢な女子高生や、生きるのに必死な子供を目の当たりにして、この腐った社会の未来を、ほんの少し心配してしまったのかもしれない。


「次はー、シブヤー、シブヤー」


 車内アナウンスが停車駅を告げる。

 俺はブルゾンのポケットに両手を突っ込むと、出入り口付近に移動した。あともう少しで、柔らかいベッドにたどり着ける。今日は枕を高くして眠れる。思う存分、惰眠を貪ってやろうと決めると、俺は停まった電車からホームへと降りた。


 駅から外に出ると、道が樹から落ちた紅葉で赤く染まっていた。もう季節は秋か。つい、この間まで暑い日が続いていたと思っていたのに。こんな些細な季節の移り変わりにも郷愁を感じてしまうのは、やはり――と思いかけて、やめた。


 そんなことより、早く帰ってメシを食って寝よう。しばらくは自堕落な生活を送ってやる。そう、心に決めて、駅前の公園を横切っていたら、悲鳴に似た声が聞こえた。

 面倒事に巻き込まれるのは勘弁だ。そうじゃなくても、今日は疲れている。気配を消して、そっと歩いていたら、その声は悲鳴ではなく、怒鳴り声だということに気がついた。


 若い男女が一組、向かい合って怒鳴り合いの喧嘩をしていた。恐らく痴話喧嘩だろう。別れるとか、別れないとか、不毛な言い合いをしている。


 ――恥ずかしくないのかな。

 愛し合う男女の間には、時々、羞恥心というものが失くなるのかもしれない。

 どちらにせよ、俺には関係ない。さっさと無視して帰ろうとしたら、突然、腕を掴まれた。


「何――」

「言っておくけど、私、本気だから!」


 一体、何が『本気』なんだ。本気と俺の間に、どんな関係があるというのか。

 よく見たら、痴話喧嘩をしていた女性の方が、俺の腕を捕まえて相手の男に向かって怒鳴り声を上げていた。


「おい、離してくれな――」「アンタ、名前は?」「え? 加納――」


 不覚だった。

 勢いに負けて、思わず名前を名乗ってしまった。

 やばい、と思った時には、すでに遅し。女は、「私、加納さんと結婚する約束してるの」と金切り声をあげた。


「ちょ、待て、俺は何も関係な」「嘘だろ!? そいつ、今たまたま歩いてきたヤツじゃねぇかよ!」そうだ、その通りだ。男の言うことが正しい。もっと言え。そして俺を解放してくれ。


「残念ね。貴方と出会うより前からの知り合いよ。今だって、貴方に会う前に連絡して、来てくれるように頼んだのよ」

「おい、何を勝手な」「いいから合わせて!」


 ギッと鋭い眼光に睨みつけられて、俺は思わず怯んでしまった。


「私と加納さんはね、毎日セックスするほどラブラブなの。もう、大変。何回ヤってもヤっても離してくれないのよ。貴方と違って情熱的だわ」

「ちょっとそれは無理が」「うるさいって言ってるでしょ!」


 どうやら、黙っていた方が早く解放されるかもしれない。

 だんまりを決め込むと、今度は男の方が訳のわからないことを言い出した。


「お、お、オレだってなぁ、その、加納……さん、と、密接な関係があるんだよ!」

「へえ~? 一体、どんな? 初対面丸出しで、何を言うのかしら」

「加納さんとセックス三昧なのは、お前じゃなくてオレなんだよ!」

「は!?」「ハァ!?」


 一体、何を言い出すんだ、この脳みその溶けた男は! いや、女の方も女の方だが。どうせ誤解されるなら、美人との浮気だけにして欲しい。男とセックスなんて、そんな気持ち悪い――


「そんな簡単にわかる嘘吐いて、一体どういうつもり?」

「嘘じゃねぇよ! なぁ、加納!」

「俺はお前たちに会うのは初めてなんだが……」

「やっぱり嘘じゃねぇか!」「アンタだって嘘吐いたじゃない!」

「……もういい加減にしてくれ」


 俺は女の腕を振りほどく。「一体、何が喧嘩の原因なんだ。少し冷静になれ、お前ら」

 気まずそうに視線を絡ませた二人は、そっぽを向いて喧嘩の原因をぽつりぽつりと話しだした。


「この人が、メール送っても三十分も無視して……」「会社の会議中だったんだよ。携帯なんか弄れるかよ。大体、お前だってメールを十分も無視したじゃねぇか。それどころか、メールに『好き』って書いてくれねぇし」「書いてるわよ! ただ、縦読みなだけで」「気づくかってんだ」

「…………」


 なんなんだ、この不毛極まりないバカップルは。呆れてモノも言えないとは、まさにこのことだ。


「お前らなぁ……子供じゃないんだから、メールが三十分返ってこないくらいで喧嘩するな」「三十分じゃねぇ、俺は十分だ」「うるさい同じことだ黙れ」


 一息に言うと、男はぐっと喉を鳴らし、俯いた。女も女で、バツが悪そうにそっぽを向いている。


「返信が必ず必要なメールが、一日以上経っても返って来ないようなら、喧嘩をしろ。数十分程度で喧嘩するなよ。高校生か、お前ら」

「立派な社会人ですぅ」

「『ですぅ』じゃない。立派な社会人なら、そこらへんをわきまえろ」


 ――今の若者って、みんなこうなのだろうか。

 オッサンの俺は、頭が痛くなってきた。出来ればこいつらが特殊だと思いたい。


「ほら、謝れ。お互いに。もっと大人になれよ」

「…………」


 無言で二人が向かい合う。「……本当にオレのこと、好きか?」「好きに決まってるじゃない。私には貴方しかいないもの」「……オレも、お前のことが……。……ごめんな、なかなかメール返せなくて」「私こそ……ごめんなさい」


 ふ、と、表情を和らげたかと思うと、二人はどちらともなく抱きしめあった。


「あの人とは、関係はないんだよな?」「もちろんよ。顔も名前も知らない、ただのオッサンよ」「ちょっと待て、なんだその言い草は」「良かった」「貴方こそ、関係ないのよね?」「オレはホモじゃねぇよ」「良かった、安心した」

 抱き合ったかと思うと勝手なことを言い出し、いちゃつき始める。もう、俺の存在など眼中にない。

「……勝手にやってくれ」


 一気に疲れた。

 なんなんだ、最近の若者は。というか、『最近の若者は』なんて、まるで自分は若者ではないと再確認しているようで、なんだかそれも切ない。確かに『若者』の年齢は過ぎてはいるけれど――ああ、もういい。もう余計なことは何も考えたくない。早く帰って寝るんだ。寝てやる。全部忘れてやる。


 トボトボと帰路につく。シブヤも昔は深夜になっても人で溢れかえっていたと言うが、今ではそんな面影すら見ることはない。単に、ねぐらとしている廃ビルが、駅前から離れた裏路地にあるせいかもしれないが。


 そろそろ戻ると七菜に伝えておこうか。予定よりも遅くなってしまったため、もしかしたら心配しているかもしれない。

 ポケットから携帯電話を取り出そうとするが、つい手が滑って携帯を地面に落としてしまった。


「はぁ……。お前まで俺に厄介事を持ち込むのか」


 携帯を落としたことくらい、厄介とは言い過ぎかもしれないが、こんなにもトラブル大渋滞だと思わず愚痴もこぼしたくなる。

 液晶は割れてないよな、と心配をしつつ、屈んで携帯を拾おうとしたところで、またもや珍客が現れた。

 はむっ――という言葉を具現化したかのような動作で、野良犬が携帯を咥える。


「え」


 思わず出た声はあまりに間抜けで、まさか自分の口から発せられたものだと認識するのに数秒かかった。ついでに言うと、携帯を咥えた野良犬とにらめっこをしていたのも、本当なら数秒なのだろうけれど、まるで十分以上見つめ合っていたような気がした。

 犬は携帯を咥えたまま。俺の横をトコトコと過ぎていった。


「ちょ――待て!」


 慌てて犬を捕まえようとすると、野生の勘がそうさせたのか、野良犬は突然走り出した。俺の携帯を咥えたままで。


「マジか!?」


 走り出した野良犬を追いかけるために、俺も地面を蹴る。「ちょっと待て!」

 言葉が通じているのかいないのか、犬は一層走るスピードを上げる。捕まえようと腕を伸ばすが、そのたびにヒラリとかわされて、まるで馬鹿にされているようだ。


「待て! 止まれっての!!」


 なんで、こんな夜中に追いかけっこをしなくちゃならないのだ。今日あった色々なことのせいで、予想よりも疲れている身体に鞭打って犬を追いかける。捕獲範囲内に入るたびにかわされて、また追いかけて、かわされて、を、どれだけ続けただろう。息はあがり、足はもつれ、もう満足に走ることも出来ない。転がるように足を動かす。もう、残っているのは根性だけだ。


 永遠とも思える追いかけっこが終わったのは突然のことだった。結局、痴話喧嘩をしていたカップルのいた駅前公園まで戻ると、野良犬が子供に向かって尻尾を振っていた。

 その子供には見覚えがあった。――電車でスリをしてきた少年だった。少年は俺に気づくと、目をまん丸く見開いた。


「オジサン、何やってるの?」


 説明しようにも、肩で息をしている状態では満足に言葉も発せられない。膝に手をあてて、ゼイゼイと呼吸を整えていると、少年が、犬が携帯電話を咥えていることに気がついた。「もしかしてコレ、オジサンの?」

 無言で頭を振ると、少年は犬の口から携帯を取ると、「返して欲しい?」と言い出した。


「そりゃ、俺のだし……」

「ふーん。でも、タダで返すのはなぁ……ねぇ?」


 にこお、と、無邪気な笑みを浮かべる。その裏側に期待が見え隠れしている。しかし背に腹は代えられない。俺はズボンのポケットから財布を取り出すと、電車の中でそうしたように、札を一枚差し出した。「毎度」


 ――なんて日だ。

 痴漢に間違われ、スリに遭い、痴話喧嘩に巻き込まれ、野良犬と追いかけっこ。どこの誰がこんな脚本を書いたんだ。趣味が悪いにも程がある。


「よーしよし」


 ぐりぐりと野良犬の頭を撫でる少年は無邪気そのもので、見ていて微笑ましくもある。ちょっとがめついところはあるけれど。

 さて、携帯も戻ったし、今度こそ帰ろうと踵を返そうとしたら、少年がポケットからバタフライナイフを取り出した。


「……っ!?」


 とっさに防衛態勢に入るが、少年の目は俺ではなく、犬に向いていた。


「お前……なにを」「何って、食べるんだけど」


 犬を? え?

 パクパクと口を開閉していたら、少年が「オジサン、間抜けだよ」と笑った。「いやだって、こいつ、お前の犬じゃないのか? すごい懐いてるし……」


「違うよ。食べようと思って、警戒心解くために一週間くらいは面倒見てたけど」

「食べ……」


 古い文献で見たことがある。その昔、ある民族では犬を食べる習慣があったと。

 しかしまさか、現代、それもニッポンで、こんな少年が、犬を食べ――


「……これ、やるから、そいつは離してやれ……」


 一万円札をもう一枚、少年に渡すと、彼はぱあっと顔を輝かせた。

 なんとか少年の空腹と野良犬の命を救い、今度こそ家路についた。もう疲れ果てていて歩くのもやっとだ。


「ただいま……」

「おかえり、かのちゃん」


 部屋の奥から七菜が出て来る。その可愛らしい笑顔を見ていたら、なんだか少しだけ救われたような気がした。


「ん」


 笑顔で七菜が両手を差し出してくる。「? なんだ?」「お金。報酬、入ったんでしょ?」


 ――報酬……?

 パッ、と、ブルゾンに手をあてる。

 ゆっくりと、今日あったことを思い返してみる。


 野良犬を救けた。

 少年に金を渡した。

 痴話喧嘩を仲裁した。

 スリを捕まえた。

 痴漢男を捕まえた。

 電車に乗った。

 報告書を渡した――


 ――報酬の支払いを渋る依頼人も多いので、基本、報酬は報告書と交換することになっている。なっている、が――


 ――終電に飛び乗る直前、名前を呼ばれた気がした。

 あれは、『報酬を手渡すのがまだですよ』という呼びかけだった……の、か?


「……かのちゃん?」

「け、携帯……」


 慌てて依頼人の携帯に電話をするが、聞こえてきたアナウンスは、「現在、この番号は使われていないため――」という、非情なものだった。


 俺の表情から何かを察したのか、七菜は可愛い顔を顰めると、ひとこと呟いた。「馬鹿?」

 ――本当に今日は……なんて日だ。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 本当に可哀想なおっさんだけど、コミカルで笑えちゃいました。それにしても犬を食べるとは……。中国では食べることもあるらしいけど、犬を可愛がっている人間としてはエグいですね。(笑いましたけど)…
2017/06/25 19:59 退会済み
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