きかいのからだ
短めの、盛り上がりも何もない小説。「わたし」と同級生のDの、小さな反抗の物語。
『機械化はお済みですか。直接脳をインターネットと接続。外部メモリに直接書き込んで、効率的な生活を送る。あなたの人生をより有意義で、素晴らしいものに……』
テレビの画面を眺めながら、コーヒーを啜る。苦い。しかし、本当の意味で味覚があるのも、あと数日だけだ。数日後、わたしは機械化手術を受けることになっていた。今後は目で食べものをスキャンし、解析。脳に直接電気信号を送り込むことで、味覚を擬似的に経験することになる。
「わたし、このコマーシャル大嫌いよ」
隣で同じようにテレビを眺めていた D がふと呟いた。Dは大学の同級生。今日は朝からわたしの家に遊びに来ていた。
「だって、人間が機械化したからって、その人生が有意義になるなんて限らないんだもの。そもそも、有意義かどうかなんて未来から過去を振り返った時にしか分からない。そんな不確かなものを、まるでそうなるに違いないというように宣伝している」
分かるかしら、とDはこちらを向いてわたしに尋ねた。わたしが頷くと、Dは満足げに笑った。
2088年、日本で首都直下地震が発生。その後つぎつぎと世界各地で地震が続いたことにより、人口は急減。それを憂慮した各国政府は生存者の保護に走った。
2089年から世界各国で身体の機械化プロジェクトが進行。もともとは政府関係者や官僚、その家族がメインのプロジェクトだったが、徐々に一般にも普及。2093年現在、人口の28.6%が機械化している。金さえ積めば高性能な身体を手に入れることも可能だ。
D もわたしも、機械化手術を受けていない72.4%の1人だ。とはいえ、わたしはあと数日で機械の身体を手に入れる。官僚である父が周りの圧力に耐えられなくなってきていたのが大きな要因だ。 政府主導のプロジェクトに、政府関係者や議員、官僚が協力的でなければ何かと問題だそうだ。
『それでは、次のニュースです。機械化プロジェクトに反対する過激派が殺傷事件を……』
全ての人が機械化に賛成しているわけではない。特に、機械化には莫大な資金が必要だった。一般人にはまず手が出せない。平等の原理に反する上に倫理的に問題であるとして、プロジェクト自体を凍結させようとする過激派も活発に活動している。
「機械化した人間の身体を傷つけて、その身体が使えなくなった場合は殺傷と言えるかしら」
機械化した人間は、脳さえ生きていれば身体をいくら傷つけられても変えが効くでしょう、とDは言って、もう湯気の出ていないコーヒーを啜った。
「あなたも機械化なんてしなければいいのに。もう二度と、本当の意味であなたと同じ経験は出来なくなってしまう」
一緒にコーヒーを飲んでも、同じコーヒーを飲んでいることにはならない。
わたしの目が液体を解析して、つくりものの手がマグカップを掴む。コーヒーであると処理されたその液体がわたしの口に入った瞬間に、脳に電気信号が送られて苦いと感じる。そのあと液体は身体をスルスルと流れて、溜まって。そして容量いっぱいいっぱいになったら、外に出してしまう。何の栄養にもならずに。
ご飯に行きましょう、あなたの味覚がなくなる前にね、とDはからかうように笑って立ち上がった。
大学も長期休暇に入っているからか、人通りがいつもよりも多い。わたしたちは人と人の隙間を縫うようにして、どこのお店を目標にするわけでもなく歩いた。わたしたちの大学も休み。新学期が始まるまでは時間がたっぷりある。だからこそ、このタイミングでのわたしの機械化手術ということでもあった。
向かいから、三人組の大学生が歩いて来るのが目に入った。皆同じ顔立ちで、同じ背格好。服装だけが唯一異なるそれ。
廉価モデル、製品名E-1058-6。通称ERI。
お金が十分に用意できない人で機械化を希望する人は、廉価モデルERIの身体に脳を搭載した。お金のある人はそんなことを気にしなくても良い。というのも、特別発注すればよいからだ。今の身体とそっくりにすることも出来るし、理想の身体を手に入れることも出来る。
「気味の悪い世界になったわ、本当に」
まあ、「皆と同じ」が好きな人にはもってこいなのかもしれないけれど、Dが大学生とのすれ違い様にそう呟くのが聴こえた。
空席のあるお店を見つけて入って、適当に注文する。人間が機械化し食事が必要ではなくなったとはいえ、基本的には飲食店が減っているというわけではない。そして、これからも減らないだろうということは容易に予想できる。
ある程度お金のある人しか機械化できないことから考えても、安価な飲食店はまず安泰だ。それに高級店も、娯楽としての「食事」を楽しむためのものとしてその数が減ることはないだろう。
「今何を考えてる……」とDがわたしに尋ねた。
素直に話すと、Dはわたしに同意した。
「機械化がますます進んだとしてなくなるものは、きっと本とかそういうものね」
本。今は電子書籍として機械を使って読むことが出来る。それでも、紙の本の数は減っていない。
「おそらく直接脳に書き込むか、もしくは外部メモリに保存して必要な時に脳に直接接続することになるんじゃないかしら」
直接脳に書き込むにせよ、外部メモリに保存するにせよ、その内容を理解しているかどうかと言う点に関しては別だけど、と器用にパスタをフォークにまきつけながら D は付け足した。
「いつでも見たいときに見ることができる。引き出したいときに引き出せる。そういう風になるんじゃないかしら。もし機械の身体を持つ人が大多数を占めたら、の話だけれど」
食事を済ませると、公園へ向かった。D はブランコが気に入っているらしく、食事の後はいつも公園へ立ち寄った。
わたしは、ブランコの前のポールに腰掛けて、ブランコに身を任せるDの様子を眺めた。Dの長い髪が、スカートが、ジャケットが、ブランコの動きと僅かに遅れてなびく。ブランコの鎖を掴む細い指は、今にも鎖から離れてしまいそうなほどに繊細だ。
これが本物だ、と思った。これが本物の人間。これこそが人間。機械ではない、生身の。生きている人間。
「ねえ」とDがわたしに声をかけてきた。
「わたしと一緒に、逃げない……」