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後編:女将の秘密

「素敵なお店ね。私、ここが気に入っちゃったかも」

 女将は何も言わない。それどころか、目も合わせようとしない。どうもいつもの女将らしくない。

 それは、たった今入って来たこの女性のせいだろうか? 彼女は何者だろう? 名前は?

 名前…さっき女将が言っていたような気がする―――そうだ、“菊花”だ。彼女を見た瞬間、女将はとっさにそう言った。だとしたら。

「あなたが、菊花さんですか」

「えっ……」

 彼女は大きな目を見開き、私を見る。

「どうしてその名前を……」

「いえね、さっき少しあなたのお話を聞かせていただいたものでしてね……そこにいる女将に」

「女将?」

 彼女は体をひねって、女将の方を振り向く。しばらく眺めてから、思い出したようにあっと声を上げた。

「お恵ちゃん?」

 女将はゆっくり目を伏せると、小さく頷いて、そして言った。

「はい……お久しぶりです、菊花姐さん。こんな形で再会することになってしまって、申し訳ありません……」

 やはりそうだったのか。

 だが、決まり悪そうにしている女将を、菊花は責めなかった。

「どうして謝るの? あの日突然出て行ったあなたを、この私が恨んでいるとでも? そんなの絶対にないわ」

 女将は何も言わない。口をぎゅっと引き結んだまま、ただ足元の一点を見つめている。

「でも、お恵ちゃん、元気でやってたのね。何しろ30年以上も会っていなかったから、もう会えないかと思ってた……」

 菊花が笑うと、女将の顔もややほころんだ。彼女は話を続ける。

「そういえば、娘さんはお元気? 私は赤ちゃんの頃の彼女しか見たことがないけれど……もういい年になってるわよね」

 女将の顔が、ふたたび引きつる。さっきの話が本当なら、娘などここにはいない。連れてこようにも、できないのだ。

「きっと、お母さんに似て美人になってるでしょうね。だってお恵ちゃんの娘だもの」

 そのとき、ゆっくり開いた女将のその小さな口から、蚊の鳴くような声がもれた。

「ごめんなさい……」

「え?」

 頭に疑問符を浮かべたような顔で、菊花は訊き返す。そんな彼女の目もろくに見れぬまま、女将は尚も謝り続けた。

「ごめんなさい……。ごめんなさい、私……」

 彼女の瞳から、ほろりと涙が落ちる。そのしずくはやがて川となって、彼女の頬を流れた。

「あんなに世話になったあなたのもとを……あんなに信頼していたあなたのもとを……私は飛び出してしまった。

それだけじゃない。私は―――大切な娘のことも、あの日泊った小さな商家に置いてきてしまったの…」

 女将は、顔を両手で覆い、そばに菊花や私がいることも忘れたかのように無心に泣き続けた。

 そんな彼女を、私はもはや黙ってみていることしかできなかった。

 おもむろに菊花が立ちあがり、机越しに女将の震えた肩を包む。

「大丈夫、大丈夫よ……。そうだったのね。お恵ちゃん、いっぱい抱え込んでたのね…。大丈夫、もう大丈夫だから」

「菊花、姐さん…」

 女将の涙が、菊花の肩を濡らした。

「ありがとう、話してくれて。辛かったでしょう。寂しかったでしょう。もう大丈夫よ、私がそばにいるわ」

 引きつけを起こす彼女の背中を、菊花は優しく撫でる。それはもう、母のように。

 おそらく、女将がまだ『お恵』と名乗っていた時代…また『平太夫』と呼ばれる遊女だった時代…。

 家族のもとを離れたお恵にとって、唯一の信頼できる人間だった彼女は、母親代わりの存在だったろう。

 そして今、かつてお恵だった女…小料理屋『たいら』の女将その人は、母同然の女性の腕の中で幼子おさなごのように泣きじゃくっている。

 私はこんな女将を、これまでに見たことがなかった。

 そして女将は私に、自らの秘密を打ち明けてくれた。おそらく私が口の堅い男であることを知って。

 明日になれば、いつもの女将に戻っているだろう。今晩聞いた秘密も、今後決して口に出されることはないのだろう。

 机の端にお代を置いたまま、二人の邪魔にならぬよう、私はそっと店を出た。

制作期間:2011年9月20日~10月16日(約4週間)

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