古書店員の火事が熱い
「第14回文学フリマ」のイ-20「クモノスタジオ」にて、150p7話収録の小説『コショテンイン』販売予定です。
こんにちは、イトーです。
真夏のこの島はすっかり低気圧に包まれていて、燃え上がる太陽に比例して蝉も命を燃やしている、そんな日々が続いています。
雲で空が覆われているにも関わらず、熱をたっぷりと吸ったアスファルトが太陽に代わって大気を熱し続けています。この灼熱の環境ではこの古書店に運ばれるお客様の足も遠のきつつあり、現在我が店では絶賛赤字祭りの真っ最中です。
幸い、狭い店内には冷房がよく利いているおかげで仕事に支障はありませんが、お客様のほとんどいないお店で何をしろというのでしょうか。
加工も補充も、棚の整頓すら終えて暇をもてあましていると、レジに近づく人影がありました。
すわ客か、と身構えたのも一瞬。その人物を見るなり、私の背はさらに伸ばされることになりました。
「これは店長、ご機嫌うるわしゅう。しかし、どうにもゆゆしき事態です」
明度の低い赤のエプロンに身を包んだ若い男性は、その言葉に眉根に皺を刻みました。普段は柔和で微笑を湛えている印象が強く、どちらかというとその細身の容姿は儚げな文学青年を思わせますが、こと書店の経営となると店長は怜悧な眼光を目に宿らせます。
「どうかしたのかい、イトー書店員」
「どうかしました。店長、お客様がいないのです」
見通しの良すぎる店内を見渡し、店長は鼻を一つ鳴らします。
「呼び込みは?」
「すでにガトー書店員が店頭付近でチラシを配っています」
ガトーさんは私や店長よりもずっと年上の、ベテランの書店員です。昔は伝説の書店員としてその名を轟かせていましたが、四十を迎えた今では栄光も過去のもの、四十肩と腰痛に悩まされているそうで、私も心配しています。
「ガトーさんが? 大丈夫なのかい、この前みたいに熱中症で倒れたりしていないだろうね」
「今日はスポーツ飲料を持って行きました」
古書店員ほどハードな業種はなかなか見あたりません。私たちは常に新しい書物を棚に補充し続け、必要とあらば外界にまで出向き声を張り上げます。ガトーさんは最近、腱鞘炎まで併発したとか。彼はいつか黒い血を吐くかもしれません。
ですから本来ならばこのような閑暇は貴重なものなのですが、それも売り上げあってのものです。
「ところで、イトー書店員は趣味で小説を書いていると聞いたけれど」
暇を持て余したのか、とうとう世間話が始まりました。私は瞬時に背を伸ばします。
「はっ。恥ずかしながら、ミステリなどを嗜なんでおります」
「ミステリーか、いいね。よく読むよ」
ああ、そんな無体な。ミステリとミステリーは似ているようで、まるで異なる概念です。相手が店長でなければ引き音はいらねえんだよ! と襟首掴んで揺らしていたところです。
「どうしたんだい、イトー書店員。浮かない顔だけど」
「いえ。それが、ここのところ思うように筆が走らないのです」
何もこれは引き音の有無のむしゃくしゃをごまかすための嘘ではありません。プロットをまず組み立てるにしても、そこに誰も思いつかないような斬新さがなければいけません。私はその第一歩でもう何週間もつまづいているのです。
頭を抱える私を見て、店長は思案する時間を稼ぐように眼鏡の位置を直しました。
「そうだな……こんな話があるんだけれど、どうだろう。
実は古書店連盟の方で連盟誌を作ろうという動きがあってね。そこに短編小説を掲載しようって案があったんだけど、誰も立候補しないものだから困ってて」
「僭越ながら、私でよろしければ」
一を聞いて全を返す、これぞ書店員道です。
「でもいいのかい。最近スランプなんだろう」
確かにその通り。ですが執筆は布団の上で天井を見つめていて上達するものではありません。
そう、自らを常に激しい戦火の下に置くことこそが人を強くするのです。猫に追いつめられた鼠は猫に抗する心胆を身につけます。ホームズだって、モリアーティ教授との死闘を乗り越え必ずや滝壺から生還するに違いないのです。
ええと、何の話だったでしょうか。
「や、助かる。もし人気が出れば連盟誌の方から出版という話もあるそうだよ」
ああそうそう、私のデビューの話でしたね。
いまだお客様の姿は見えず、カウンターを挟んだ私たちの話し声はどんどんボリュームを増していきます。
「つきましては店長、もし出版されたときなのですが帯には〈ミステリー〉ではなく〈ミステリ〉と表記して頂きたく存じます」
「……。もし出版が決まったらね」
「それと何か連盟の方から内容の指定などはございますか」
赤いエプロンのポケットからメモ帳を取り出して、店長はパラパラとページを繰ります。
「いや、特に聞いてはいないね」
「それから、店長」
「まだあるの?」
さすがに顔には出されませんでしたが、言葉の裏にうんざりという色が滲んでいます。
「ご安心ください、質問は先ほどのもので最後です。 つきましては一番得意なミステリのジャンルで挑みたいと思うのですが」
「ミステリーというと、嵐のせいで洋館の中で閉じこめられるあのミステリーかい」
「全員で手分けして洋館を探索すると、戻ってくる頃には一人足りないあのミステリです」
「最後には洋館が燃える、あのミステリーだね」
いえ、そこは変化を加えるのもいいかもしれません。
私は、全身が頭からがすうっと思考の内に沈んでいくのを感じました。
アイデアを考えるとき、集中してはいけません。もちろん浮かんだアイデアに輪郭を与え、結実化させるためには針の穴に糸を通すような集中が不可欠です。ですがそこに至るまでの途上、思考は焦点を失います。それはまるで、暗く果ての見えない空間に潜むものを見通そうとするかのようです。
不意に、奇妙な感覚が舞い降りました。
頭の中で指の先が何かに触れるような発見。私はその天啓が霞む前に一気にまくし立てました。
「火事、といいますと三島の『金閣寺』が有名でしょうか。その手法が古くから用いられ続けたのは、燃え盛る炎という構図が視覚的効果に非常に優れたものだからです」
「ああ、知ってるよ。芥川の『奉教人の死』もそうだね」
私の沈思に気づいた店長は、適度な相づちで思考を促してくださいます。
「ええ。ですがそれは先哲によって使い古された、陳腐な展開ということでもあります。昔ならともかく、とても今では耐用し得ないでしょう」
「じゃあどうするんだい」
さて、ここが考えどころです。アイデアに斬新さを含ませる手法はいくつかあります。逆転、過剰、それに付与です。逆転とはそのアイデアの性質をまるきり逆にしてみるもので、例えば洋館が凍り付くことで意表を付く効果などが見込めます。過剰と付与も字面から想像して頂ける通りのものでしょう。
私は新たな性質を付け加えることにしました。
「洋館は宇宙へ飛び去る、というのはどうでしょうか」
「なるほど!」指を軽快に鳴らす音。「一見読者には陳腐な火事オチだと思わせておき、直後に実はその炎がジェットエンジンによるものだと判明するんだね!」
さすが店長。言葉を重ねるまでもなかったようです。
しかしこれで終わりではありません。展開を一転させたら、必ず二転、三転と続けろというのはミステリ屋における基本原則です。
「店長。せっかくですから、宇宙空間で更に真犯人が判明するというのはどうでしょう」
「すばらしい、真のクローズドサークルだ。じゃあ次は動機だ。もの悲しくて、それでいて泣けるものがいいな」
「では動物も出しましょう。古今東西、泣きにおいて動物に勝るものはありません。捨てられた犬のナンタラが犯人の殺害動機なのです。少々整合が合わずとも読者を泣かせば勝ちです」
概要が完成し、にわかに私たちは盛り上がります。その勢いたるや、その場で祝杯を上げかねないほどでした。
そして私は思い出しました。人々が陳腐と蔑む王道の中にこそ感動の本質が潜んでいること、ゼロから生まれる革新など存在しないということを。誰の手垢もついていないものを探すあまり、そんな基本的なことさえ失念してしまっていたとは!
自動ドアの開かれる音。遅れて入り込む外の熱気と、人の足音。いらっしゃいませと言いかけて、扉の外に眩しい光を感じた私は店内から空を仰ぎました。
灰色の雲が裂け、遙か上空に美しい海の色が覗いています。雲間から降りたのは、まるで天使が光臨するかのような、それは神々しい光の帯でした。
「見なよイトー君。雲が晴れるよ」
自然が織りなす光の芸術は、まるで新たな試みに挑む我々への祝福のようです。その輝きに見入る私たちの瞳には、美への畏敬と、そして売り上げに対する清々しい諦念があるのみでした。